[#表紙(表紙.jpg)] 随筆宮本武蔵 吉川 英治 [#2段階大きい文字] 序  古人を観《み》るのは、山を観るようなものである。観る者の心ひとつで、山のありかたは千差万別する。  無用にも有用にも。遠くにも、身近にも。  山に対して、山を観るがごとく、時をへだてて古人を観る。興趣はつきない。  過去の空には、古人の群峰がある。そのたくさんな山影の中で、宮本武蔵は、私のすきな古人のひとりである。剣という秋霜《しゆうそう》の気が、その人の全部かのように荊々《とげとげ》しく思われて来たが、彼の仮名文字《かなもじ》をようく見つめているとわかる。あんな優雅なにおい、やさしさ、細やかさ、虚淡《きよたん》な美を、剣を持つ指の先から書きながす人が、過去にも幾人とあったろうか。  子どもが好きだ。漂泊《ひようはく》の途で、不幸で質のいい子を見かけると彼は拾う。銀の猫をやって立去った西行さんより人間的だ。なぜなら、彼も不幸な子だったから。  自ら伸ばそうともしない生命の芽を、また運命を、日陰へばかり這わせて、不遇を時代のせいにばかりしたがる者は、彼の友ではあり得ない。大風にもあらい波にも、時代がぶつけて来るものへは、大手をひろげてぶつかり、それに屈しないのが、彼の歩みだった。道だった。  近代の物力以上、近代人の知能以上、系図や家門が重んじられた社会制度の頃に生きて、一郷士の子という以外、彼は何も持たなかった。持てるようになってからも持たなかった。死ぬまで、離さなかったものがただ一つあった。剣である。その道である。  剣をとおして、彼は人間の凡愚と菩提《ぼだい》を見、人間という煩悩《ぼんのう》のかたまりが、その生きるための闘争本能が、どう処理してゆけるものか、死ぬまで苦労してみた人だ。乱麻殺伐《らんまさつばつ》な時風に、人間を斬る具とのみされていた剣を、同時に、仏光ともなし、愛のつるぎともして、人生の修羅なるものを、人間苦の一つの好争性を、しみじみ哲学してみた人である。  剣を、一ツの「道」にまで、精神的なものへ、引上げたのも彼である。応仁から戦国期へかけて、ただ殺伐にばかり歩いてきた、さむらいの道は、まちがいなくそこから踏み直したといっていい。  眸が琥珀色《こはくいろ》だった。六尺近くも背があった。生涯六十何度かの試合に勝ちとおした。一生妻も娶《めと》らなかった。晩年は髪もくしけずらず湯にもはいらなかった。——こころの垢《あか》はそそぐとも身の垢はそそぐによしなし、と猶、心をくだいていた。ずいぶん怖い人にちがいなかった。だが今日残っている彼の画は、老梅の花とも、秋霜の菊華とも、気品のたかさゆかしさ、称《たた》えようもないではないか。  そういう武蔵。いろいろな角度から、観る者の眼ひとつで、いろいろに観られる武蔵。  従って、名人論、非名人論、古くから毀誉褒貶《きよほうへん》のなかに彼の名は漂《ただよ》わされて来た。私はまた小説に書いた。  小説は必ずしも史実を追っていない。ただ古人の足あとをたよりに、その内面のこころへ迫ってみるしか為《な》すすべ[#「すべ」に傍点]はないのである。殊に、武蔵のような史料の乏しい人物をとらえて、書くということは、土中の白骨へふたたび血液を通わせてみようとする所業にもひとしい。よほど盲目か不敵かでなければ思い立てた仕事ではない。  敢て不敵になって、書きはしたが、小説が読まれれば読まれるほど、作家の創意と、正伝《せいでん》の史実とが、将来、混淆《こんこう》されてゆかれそうな惧《おそ》れがある。  薔薇を植えた者が、自ら薔薇を刈るに似ているが、小閑の鋏で、あちこち、少し史実と創意の枝とを剪定《せんてい》して、この一輯を束ねておくことにした。  文学的信念が小説にはないからだろうと。友よ、笑う勿れ。この不敵者にも、多分な臆病がある。  大衆は大智識であるからである。  それと、自分の景仰する古人に対して、当然な、礼としても、私は畏れる。 [#地付き]昭和十四年・仲春      [#地付き]於草思堂          [#地付き]英 治 生  [#改ページ] [#2段階大きい文字] 目 次  序 随筆宮本武蔵  はしがき  彼の略史伝  彼の自戒の壁書文  彼の歩いた「道」とその「時流」  画人としての宮本二天  武蔵の画と書を通して  五輪書と霊巌洞  「手紙の話」と「彼の筆蹟」  島原役における彼の書簡  画にも運命のある話  自詠の和歌と、疑問の一句  愚堂和尚讃「二天画祖師像」について  武者修行について  各家の武蔵論  少年時代と家庭  家 系  武蔵と吉岡家  離郷附本位田又八  流寓の新免家六人衆  三宅軍兵衛との試合  佐々木小次郎について  二刀について  佩刀考  沢庵と細川忠利  柳生の剣法・武蔵の剣法 遺跡紀行  京都一乗寺下り松  宮本村へ  讃甘から巌流島へ  巌流島拾遺  熊本紀行  小倉紀行 逸話の宮本武蔵 [#改ページ] [#2段階大きい文字] 随筆宮本武蔵 [#改ページ] [#2段階大きい文字]  はしがき  屋上《おくじよう》、屋《おく》を架《か》す。という語がある。  この書は、たしかに、屋上屋《おくじようおく》みたいな書物《しよもつ》である。すでに、小説宮本武蔵があるのに、なお、随筆宮本武蔵など、よけいなものみたいに見られても、しかたがない。  私もまた、正直、なくてもいいものだ、と思っている。  だから当初、朝日新聞社からこれを出版したのは、特に武蔵研究などに関心をもつ一部少数の人たちのために、ごく少部数しか印刷していない。その後、再版もしていない。  ところが、読書子はないものねだりをする癖がある。また書籍は完全な消費物でもあるらしい。近来、随筆武蔵の方は、ほとんど市に見なくなってしまった。終戦後、熊本の宮本武蔵顕彰会の人も、これを探していたが、地方の古書店にも、書肆《しよし》の図書目録にも、出ないというので、東京まで求めに来られたが、私の手もとにも、今は、備考の一冊しか残っていない。それもその後、いろいろな書入れをしてあるので、人には譲れず、むなしく、お断りした例も再三ならずある。  再版する程な著述ではないと思いもするが、たまたま、そんな希望者もあり、小説の重版後、さらに求められる声が多いので、こんども少部数を、趣味版的に、出すことにした。  この随筆の方に収めた内容は、すべて小説化しない武蔵の伝記、史料、遺蹟、口碑、遺墨など、そのままの物を、素材のまま、ならべてある。  要するに、小説素材のウラを展示したものにすぎない。読者は、ははあ、こういう物を以て、あの長編は書かれたのかと、小説構成過程や、作家の史料の扱いかたや、意図などを、知ることが出来ると思う。  また、それを書いていた当時の、史料あさりの紀行だの、読者から寄せられた考証だの、身辺雑記だの、落穂集的なものも、雑然と、筆のついでに、まとめてみた。  今日になっても、まだ折々に、武蔵史料の新しい発見などもあって——(終戦後世に出た有馬家文書の島原在陣中の書簡のような)彼に関する余話はなかなか尽きそうもない。殊に、彼の遺墨、二天の画は、よく話題を生んで、著者のところへも、時々未見の物を持ちこまれる人が多い。  けれど、実際には、武蔵の史証というものは、依然として、実に少ない。昭和十年以降、私が、新聞に連載として書いていた頃から、すでに、史料は漁《あさ》りつくした感じをもっていたが、それ以後に、新しく発見されたものといっては、文献でも画蹟でも、殆ど、寥々《りようりよう》というほどもないのである。では、絶無かというと、また思いがけない書簡とか画蹟とかが、特に終戦後、旧藩家すじの蔵品整理などの内から出たりして、時々、話題を賑わすのであった。  従って、そういう正史面からの武蔵研究と、小説の宮本武蔵とが、いつか一般の人の武蔵観に錯雑と混同してゆく惧《おそ》れがある。これは大いに私の罪である。私はいつかそれを正しく区劃整理しておく義務がある。そこで随筆武蔵は、もっぱら、その責任を果たすために書いたとしておけば、いちばん無難な理由にはなる。たしかに、それもこの書の一目的にはちがいないが、要はやはり、雑然たる随筆雑録のよせあつめで、余り意義だの目標だのは立てない方が、著者も気らく、読者も気らくに、散読に適すのではないかと思う。  小説とあわせ読んだ場合、史実から見た小説。また、小説から見た史実。どちらから覗いても、或るおもしろさは得られよう。その他は、読む人の視角と取捨にまかせるとしておく。  この書の初版は、昭和十四年に出ている。その以後も、読者から寄せられた資料口碑の雑片は少なくない。武蔵の三百年祭は、昭和十九年だった。あの終戦に切迫した中だったのに、各地で遺墨展なども催され、その折の新しい発見もあった。また特に、武蔵の画集を刊行したいという社もあって、多年にわたり、資料蒐集に専念したH氏などが、その目的で、現地や諸方の所蔵家を巡って、いちいち実物について、撮影した多くの写真などもあった。いま、これに輯録したそれらの集積は、一時、かなり私の手許に蒐《あつ》まっていたのであるが、疎開の前後、他の蔵書などと共に、乱雑に見失ってしまい、この改版にあたって、自分が思うほどの新味を加え得そうもないことは、仕事をすすめながらも、遺憾にたえない。  けれど、武蔵の俳句の載っている唯一の「鉋屑集」だの、島原在陣中の書簡だの、また春山和尚《しゆんざんおしよう》に関するものだの、従来の武蔵研究の上へ、さらに寄与しうる幾種かの未見資料を収め得たことは、その方面に興味をもつ人たちへは、いささか、歓んでもらえようかと思っている。  とにかく、ものを書くとか考えるとかいう仕事は、自分の生活を深くもし、多趣多味にもしてくれるが、一面、生涯の時間を、非常に短く思わせる気がしてならない。  自分が小説宮本武蔵をかいたのは、もう十年以上も前になるが、つい、まだ昨日のような気がするのである。そして国家のありかたも思潮も風俗もこの十年は空前な歴史を劃して、大きな変革をとげてきた。その中でも、封建的なものの紋章みたいな古来からの�剣�とか�剣の道�などというものは、その辞句すら忌まれて捨て去られた。まことに、自然なる時代感情と、文化整理であって、私なども、同様な感じをもっている。けれど、誤られているのは、剣にたいする一般の概念で、武蔵のあるいた道が、決して、そういう概念にある剣の道でなかったことは、小説のうちにも、書いているつもりであるが、この随筆武蔵による彼の略史伝、遺業、晩年の生活などを見れば、なおさら、人間としての彼の正味が、正確に認識されるであろうと思う。  現代人の思想が、切実ではあるが、一面、何となく貧困で、すこしも、人間の思想として、人間苦を息づかせる窓をひらかない理由は、余りに、現実に即した理念ばかりで、まったく、宇宙観に欠けているせいではなかろうか。  余りに現実的なということは、それほど、現実の世界が、現実以外にかえりみる寸隙も人間に余裕をもたせないほど、国際闘争に、社会事情に、各箇の食や住や職業の問題などの、生活全面に、切迫しているという、実証にはちがいない。  だからといって、人間は、実はどうにもならない宇宙環のうちでの生物であり、人為的な大きな国際制約の下からすら、一歩ものがれ出られるわれわれでもない。結果的に、理念の現実固着は、いよいよわれらの現実|窒息《ちつそく》を急迫にするだけのものになる。  いまだになお、多少、この書が求められたりする理由は、一箇の古人の生涯のあとに、何かしら、ひとつの宇宙観のながれが見られ、それが現代人の心に、ふと、むし暑い夜に仰ぐ天の川に似たような、心の窓をもたせるのではあるまいか。私はそんなふうに考えた。この書の中から、そうしたかすかな涼風でも、読みとられる所があれば、私は、望外なしあわせである。 [#改ページ] [#2段階大きい文字] 彼の略史伝 [#ここから3字下げ] ——私は、前にも、幾度か云っている。史実として、正確に信じてよい範囲の「宮本武蔵なる人の正伝」といったら、それはごく微量な文字しか遺っていないということを——である。それは、むかしの漢文体にでもしたら、僅々百行にも足りないもので尽きるであろう。  ここには、その正味に近い史料に拠っただけの小伝をまず掲げておく。 [#ここで字下げ終わり]  現在、岡山県|英田《あいだ》郡|讃甘《さぬも》村|大字《おおあざ》宮本という所が、彼の生れた郷土である。  いま、村に記念碑が建っている。そこが、むかしの家址《いえあと》だという。  文学博士三島毅氏が、碑銘を。また元の熊本藩主細川護成氏が「宮本武蔵生誕地」と題字をかいている。川をへだてて、讃甘《さぬも》神社(むかしの荒巻神社)の森と相対し、四顧、山ばかりしか見えない。今も、静かな山村である。清流吉野川だけが、四世紀前も、つい昨日のように、変りなく、流れている。  そこは、むかしの竹山城下(現、英田郡大原下町)ともすぐ近い。  また、その城下から遠くない所に、下庄《しものしよう》という一村があった。  室町末期の、明応から文亀年間の頃、平田|将監《しようげん》という者が、下庄村に住んでいた。そして、竹山城主の、新免《しんめん》伊賀守に仕えた。  将監の子に、武仁《むに》という者があり、十手術に達し、号して無二斎という。  永禄年間には、京の御所(足利将軍家)へ出て、その技術を示し、地方では、かなり名誉の者であったらしい。  その子が、武蔵であった。  平田氏の祖先は、播州の豪族、赤松氏のわかれで、地方史的にみれば、土着人であり、いわゆる「地ざむらい」と呼ぶべき者であった。立派な家系として、土地では、認められていたことと思われる。  宮本の姓は、無二斎が、晩年、下庄からそこへ移って、おのずと、因《よ》って彼の姓となったものと考えられる。  べつに、新免《しんめん》という姓ももっていた。無二斎が、禄仕している主家の姓を、ゆるされたものである。  武蔵は、父の晩年の子だといわれている。母は、播州の人で、別所林治という人のむすめであるが、武蔵を生んだ後、佐用郡の田住某に、再嫁したとも伝えられている。が、よく分っていない。  武蔵は、一たん、その母と共に、連れ子となって、再嫁先へ行ったが、また戻されたなどという口碑もあり、彼の幼少は、家庭的に、めぐまれていた風ではない。ひとりの姉のことも、明瞭でない。  彼の生年は、天正十二年三月。幼名は、弁之助。後に、武蔵を称し、政名、玄信《もとのぶ》などとも名乗った。号を、二天といい、晩年、二天道楽などと自署した物もある。  武技は、父に習ったとみてよい。ほかに師らしい人を経歴にもっていない。  荒巻神社の祭りに、太鼓を打つ二本のバチから発しる一音に感悟を得て、二刀を案出したというのは、土地にのこっている伝説である。  十三歳のとき、有馬喜兵衛という、新当流の武芸者と闘い、これに打勝ったということは、二天記、春山碑文、あらゆる信ずべき彼の小伝に書かれているが、詳細は分っていない。  彼を憐れむ僧庵の某が、事前に、彼をかばって、喜兵衛の怒りをなだめたが肯《き》かれなかったという説もある。その僧の素姓も不明である。  十六歳、但馬国へ赴き、秋山某と試合したとあるが、それが、真実なら彼の初旅行はその時からといってよい。関ケ原合戦以後、この地方にも、小波瀾があり、住人の流転が始まっている。武蔵も、いずれはその流亡者の一人だったことにはまちがいない。  武蔵の離郷前後のことでは、彼の郷土にゆくと、いろいろ云い伝えられている口碑はある。しかし、伝説的価値以上の根拠はない。厳密に、史実として、篩《ふるい》にかけると、たとえ二天記や小倉碑文に書かれてある事項でも、どの程度の真実性があるかということになる。けだし「史実」ということになれば、決して、そう生やさしく、鵜呑みにしてよいものではない。  関ケ原役の後から、彼が、天涯漂泊《てんがいひようはく》の一さすらい人《びと》であったことは、疑う余地もないことといえる。しかしその間の足蹟は、まったく、雪上の鴻爪《こうそう》みたいなものである。  碑文、二天記、その他の諸書。それと傍証的ないろいろの角度から見て、吉岡家との一乗寺|下《さが》り松《まつ》の試合。夢想権之助との邂逅《かいこう》。伊賀の宍戸某《ししどぼう》との出合い。奈良宝蔵院の訪問。出雲松平家における同家の士との試合。名古屋城下の柳生兵庫とのこと。そして、豊前小倉での、巌流佐々木小次郎との試合などは、史実をむねとする古くからの研究者に、確認されている事歴である。まず間違いないこととはいえよう。しかし、いちいちについては、異説紛々であり、必ずしも、一致していない。後人のわれらが、物好きを凝《こ》らして、あらゆる傍証を、従来の物以外に模索追究してみるしか方法はないのである。  明確に、彼の存在や、言行を知りうるのは、何といっても、彼が、熊本に落着いてから後である。晩年の武蔵。それは、幾多の実証や文献を伴って、史伝として補《おぎな》うに、何のあぶなげもなく語りうる。  漂泊、遊歴の人——といっても、それ以前には、小倉の小笠原右京大夫|忠真《ただざね》に知遇を得、かなり久しくとどまっていたらしい。養子の伊織が家老として禄仕している関係もあり、島原出兵の時には、小笠原家の軍監として、従軍もしている彼だった。  その武蔵は、寛永十七年、齢《よわい》五十七歳のとき、熊本へ来ている。  細川忠利の招きによるといわれている。待遇は、米三百俵。扱いは、岩間六兵衛。取次は坂崎内膳。いまその時に、彼が君侯にさし出した口上書なるものが遺っているが、それを見ても、相互、軽々しい約ではない。  武蔵自身が、自分を語っている上答書(履歴書と見てよかろう)であるから、原文のままを、ここに見よう。(著者解文) [#ここから2字下げ]  われ等、身上《しんじよう》の事、岩間六兵衛を以て、御尋につき、口上にては、申し分けがたく候間、書付て御目に懸け候。 一、われら事、たゞ今まで、奉公人と申し候てをり候ところは、一か所もこれなく、年まかり寄り、その上、近年病者になり候へば、何の望みもござなく候、もし逗留仰せつけられ候はゞ、自然、御出馬の時、相応の武具をも持たせ参り、乗替へ馬の一疋も、ひかせ参り候やうに有之《これあり》候はゞ、能《よろ》しく御座候。 一、妻子とても、これなく、老体に相なり候へば、居宅家財等のこと、思ひもよらず候。 一、若年より、軍場へ出で候こと、都合六たびにて候、そのうち四度は、拙者より先を駆け候者、一人もこれなく候、その段は、あまねく何れも存ずる事にて、もつとも、証拠もこれあり候、然しながら、全く、身上《しんじよう》を申し立て致し候にては御座なく候。 一、武具の扱ひやう。軍陣において、それ/″\において、便利なる事。 一、時により、国の治めやう。 右は、若年より、心にかけ、数年たんれん致し候間、お尋ねにおいては、申しあぐべく候已上。   寛永十七年二月 [#地付き]宮本武蔵  [#ここで字下げ終わり]  このほかに、熊本奉行所日記には、当時の武蔵の扶持状、その他が記載されている。何しても、忠利は、彼にたいして、座席は大組頭の格として、居宅は、本丸の丘のすぐ前にある古址千葉城の邸を以て、彼を迎えた。  破格な優遇といってよく、ために、多少、藩内の嫉視《しつし》もかったようである。  武蔵は、それを苦痛に感じていたにちがいない。やがてこの知己忠利が逝くと、彼もまったく、俗交を絶って、その生活は、目立って、世外的な閑日に溶《と》けて行った。  熊本に落ちついた翌十八年、武蔵は忠利の命によって、彼の生涯にわたって研鑽してきた兵法二天一流の事——つまりその集大成を系列して、書いたものを、主家へさし出した。 「三十五箇条」  というのが、それである。  なお有名な、彼の「五輪書《ごりんのしよ》」は、翌々年の寛永二十年、熊本郊外の岩殿山の洞窟にこもって、精進潔斎《しようじんけつさい》して、書いたもので、彼の死す、前々年の著述である。  死は、正保二年五月十九日。  しかし、病は、春ごろから、彼に、死期のちかいことを、悟らせていた。  ここへ来てからの、無二の友であり心契の人に、泰勝寺(細川家の菩提寺)春山和尚がある。  生前の約束によって、春山和尚が引導した。国主の代拝もあり、諸士会葬して、藩葬ともいえるような盛儀であったという。  時に、年六十四。或は二という説もある。 [#改ページ] [#2段階大きい文字] 彼の自戒の壁書文 「独行道」 [#ここから3字下げ] 伝えられているものには、独行道二十一条というもあり、十九条、或は十四条など、まちまちであり、また章句の順序も一定していない。この十三句目の名利[#「名利」に傍点]というのは、いわゆる現代語の名利の意味でないことはもちろんで、節義と解すべきである。 [#ここから1字下げ] 一、世々の道にそむくことなし 一、身に、たのしみを、たくまず 一、よろづに依怙《えこ》の心なし 一、身をあさく思ひ、世をふかく思ふ 一、われ、事において後悔せず 一、善悪に他をねたむ心なし 一、いづれの道にも、わかれを悲まず 一、れんぼの思ひに、寄るこゝろなし 一、わが身にとり、物を忌むことなし 一、私宅においてのぞむ心なし 一、一生のあひだ、よくしんおもはず 一、こゝろつねに道を離れず 一、身をすてゝも名利はすてず 一、神仏を尊んで、神仏を恃《たの》まず [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#2段階大きい文字] 彼の歩いた「道」とその「時流」 [#1段階大きい文字]   近世人・武蔵  彼は、今から約三百年余前の人である。その頃の社会に、孤衣孤剣《こいこけん》の身を、漂泊《ひようはく》のうちに生涯していたといえば、非常に遠いむかしの人を語るような感じもするが、法隆寺《ほうりゆうじ》の塔は、解体改築されて後も、なお今日にその実在を示しているし、紫式部《むらさきしきぶ》の源氏がいまも愛誦されて、なお文化の底流に若い生命を息づいていることなど思えば、宮本武蔵などは、つい近世の人だといっても決して不当ではない。  殊に、彼が生長し、また、志望して生き通した天正、慶長、元和、寛永、正保の長い期間は、戦国の動乱と苦境をのりこえて、日本の近世的な基礎をすえた黎明期《れいめいき》であって、いわゆるその頃の終戦時代に、長い混乱期のあとをうけて、誕生した彼は、やはり時代の孕《はら》んだ子のひとりであったことに間違いはない。——云いかえれば、彼は、元亀、天正のあとに生れた当時の�戦後派�の青年のひとりだったともいえるであろう。その点でも、武蔵は、近世人の圏内《けんない》に置かれるべき人だし、思考してゆくにも、万葉の歌人《うたびと》や、記紀《きき》の史上の人々の血を汲みとるよりも、われわれには、はるかに身近いここちがするのである。  だが一応、彼をはっきり観《み》るには、その少年期と、中年期と、晩年との三つぐらいに分けて、時代の社会相を考えておかねば真をつかみにくいと思われる。その時代もまた、われわれの予備知識にかなり持っている年代であるから、分ってる人には一口でもすむことだが、順序として一通りいってみる。 [#1段階大きい文字]   中国・小牧役前後  中国山脈の山間の一城下に、彼が呱々《ここ》の声をあげた年は、天正十二年の三月だったといわれている。(一説に十年説や異説もあるが、二天記に従っておく)  武蔵の生れたつい二年前は、秀吉《ひでよし》の中国攻略が行われた年だった。武蔵の郷土、作州|吉野郷《よしのごう》の竹山城下(現・岡山県|讃甘《さぬも》郡宮本村)は、浮田家に所属する一領地であったから、秀吉の織田軍に合力して、有名な高松の「水攻《みずぜ》め」などには、その背道の嶮を守ったり、敵の糧道の遮断に当ったことだろうが、この地方は古くから豪族赤松の分流やら、その他の土豪の支族が、小勢力にわかれていて、利害はそれぞれ錯雑し、毛利方に加担するもあれば、織田の統制に合流するものもあったりして、中央の動流と共に、いつも小合戦の絶え間なかった地方であった。  わけて秀吉の中国遠征は、大規模な大軍をうごかして、中国一帯を、一時戦時色に染めたほどであったから、およそ戦争というものの実感と惨害は、この地方の郷土には、農民の端にまでよく分っていたに違いなかった。  老人は老人で、それ以前も絶え間のなかった——三好、細川、赤松、尼子氏などの治乱興亡の戦語《いくさがた》りを、炉ばたに寄れば、見たこと聞いたこと、幼い者にして聞かせたことであろうし、若い者は、すぐ眼近《まぢか》にあった、高松城の水攻めの陣だの、その年の本能寺の変だの、すぐ翌年の小牧の大会戦だの、そうした話題に、明け暮れ送っていたろうと思われる。  その小牧の合戦があった年に、武蔵は一歳だった。そして彼が、十七歳で臨んだという関ケ原の役までに、世の中は、急速に一転変をつげていた。やがて覇者秀吉の創造による秀吉文化に彩《いろど》られた時代だった。 [#1段階大きい文字]   「……いかゞ成行やらん」世  小牧の合戦から関ケ原までの十七年間。——武蔵の一歳から十七歳までのあいだの——彼の郷土である山間の人心は、どんなだったろうかと考えるに、その平和中、多少の泰平は謳《うた》われたろうが、なかなか中央における醍醐《だいご》の茶会とか、桃山文化の、あの爛漫《らんまん》な盛時や豪華ぶりは、夢想もできないものだったろうと思われる。  現に小牧の合戦の時でも、 [#ここから2字下げ] 天下動乱の色|顕《あら》はる。いかゞ成行《なりゆく》べき哉《や》らん。心ぼそきものなり。神慮にまかせて、明暮《あけくれ》するまで也。無端事《はしなきこと》。無端事。 [#ここで字下げ終わり] 「多聞院《たもんいん》日記」の筆者は、その天正十二年三月二十二日の項で、そう日記に誌《つ》けているのである。中央の知識人でさえ「——いかゞ成行《なりゆく》べき哉《や》らん」と観《み》たほどの脅《おび》えを抱いたのであるから、地方民の心には、もっと恟々《きようきよう》としたものがあったであろう。  小牧の合戦とはいうが、事実は秀吉と家康との二大勢力の衝突で、極く辺境な九州の一部と東奥の一地方をのぞいた以外の土地は、すべて動員された戦争だったから、武蔵の郷土|美作《みまさか》地方にも、当然、戦波はまき起っていたし、そして「多聞院日記」の筆者同様、「いかゞ成行やらん」と暗澹としていた世間の顔の中に、彼は呱々《ここ》を揚げていたのである。  秀吉でさえ、北陸の丹羽《にわ》長秀へ出した指令の文の一節には [#ここから2字下げ] ——此表《このへう》、十四五日|之内《のうち》に者《は》、世上|之《の》物狂《ものぐるひ》も、酒酔之醒《しゆすゐのさめ》たるごとくに(後略) [#ここで字下げ終わり]  と見えたりしている。その後には「筑前《ちくぜん》覚悟を以てしづめ申す可」という文字なども見える。いかに戦士自身も緊張していたか、日本中の大動乱と前途の暗黒を意識していたかがわかる。  けれど事実は、後世になってみると、それから関ケ原の役《えき》までが、すでに戦国日本の奔波は絶頂をこえていたのであった。人心は暗かったが、大地は平和を芽ざしかけていた。  それが、武蔵の生れた頃から青年期への時代であった。 [#1段階大きい文字]   時勢一転  関ケ原の役の結果は、「……いかゞ成行やらん」としていた人心に、明白な方向を示した。  長期の風雲時代は、もう終熄《しゆうそく》して来たのである。  二つの勢力が一つに統一されかかり、同時に時代の分水嶺から、不遇に去る者と、得意な機運に乗って出る者とが二分された。  武蔵は弱冠十七歳で、関ケ原の戦塵の裡《うち》へ身を投じている。どういう隊で、どういう資格で、というような所属は明白でないが、彼の父祖以来の郷土的な関係から推して、浮田《うきた》中納言の一部隊につき、軽輩な一兵士として出陣したに過ぎないことは想像に難《かた》くない。  それから戦後の行動は審《つまびら》かでない。竹山城の新免家の家士としてだとすると——新免家の落武者は九州へ落ちのびたり、黒田家に頼ったり、その他の地方へも分散したらしいが、もちろん徳川家の勢力地方は、努めて避けて潜《ひそ》んだに違いあるまい。  けれどそれは名のある重臣のことで、十七歳の一軽輩なら、どうにでも方針はつく。詮議《せんぎ》もそこまでは届くまい。武蔵などは、そういう点で身の処置は困難でなかったろうと考えられる。  その証拠には、数年後に、京都一乗寺村の下《さが》り松《まつ》で、吉岡憲法の一門と試合をしている。その時二十一歳だといわれているから、約四年の後である。  どういう素質があったか、どういう修行をしたか、この間は余程考究してみる必要がある。  一乗寺村の試合などは、あの名だたる名家の剣と一門の多勢《たぜい》に対して、一箇の武蔵が、ただよくそれを克服したとか、強かったとかいうのみでなく、精神的に観ても、すでに或る高い境地に近づきかけていた跡が見える。  巌流島で佐々木小次郎を打ったのが二十九歳だったという。それから三年後、元和元年の大坂陣の折には、西軍について実戦もしている。  それ以後にはまた、杳《よう》として、彼の足跡はあまり分っていない。分っていない間は、樹下石上の武者修行生活をしていたものと観るしかないのである。ただ、その間に飛石のようにぼつぼつと地方的な逸話だとか、他の武人と試合った話とかが、たまたま遺《のこ》されているに過ぎない。  彼の全貌が、やがて大成された相を以て、はっきりと再び吾人の眼に泛《うか》び出して来るのは、何といっても、晩年熊本に定住してからの武蔵である。五十七歳以後、六十二歳で示寂《じじやく》するまでの彼である。もっともその前にも、五十五歳で養子の伊織を具して、小笠原|忠真《ただざね》の軍監として島原の乱に出征していたり、二、三明白な事蹟もあるけれど、その言行までは詳しく遺《のこ》っていないのである。  見るが如き彼の風采や、聴くが如き彼の言葉は、およそ熊本に落着いてから後の武蔵のものであって、それを通して彼の青年期や少年時代を推知する便宜も少なくはないが、余りに晩年の彼をもって、生涯の彼を律してしまうことも、過《あやま》りが多いのではないかと考えられる。 [#1段階大きい文字]   年表とその空欄  以上、武蔵の生きていた時代を、その年齢に応じて、四期に分けてみるならば、 [#ここから2字下げ] 天正十二年から、慶長五年の関ケ原の役までを——(彼の少年期に) 慶長五年から、元和元年の大坂陣までを——(彼の青年期に) 大坂落城の元和元年から、五十一歳小倉の小笠原家に逗留までの間を——(彼の壮年期に) [#ここで字下げ終わり]  それから後、六十二歳の最期までの間が、彼の晩年期として考えられるのである。  そこで第一期の少年時代の世状と、彼の郷土における逸話や、関ケ原へ出たことなど思い合せてみると、大体、その心持や当時の四囲の事情も頷《うなず》けてくるし、ことに関ケ原以後の彼が、その戦争の結果に依ってどんな示唆《しさ》をうけたか、そしてどうして「剣」を道とする道をえらんで行ったかも、うすうすながら分る気がするのである。  まず、思想的にも、彼は大きな教訓を、時勢の事実から与えられたろう。それから片田舎の眼界を、急激に、中央の趨勢《すうせい》から世情へみひらいたことであろう。  彼の素質が、関ケ原を契機として、一転したことは、疑うべくもない。  それから第二期の——大坂落城と世間の趨勢《すうせい》を見ては、|愈※[#二の字点、unicode303b]《いよいよ》彼自身の向う道も、胸底に決していたに違いない。それは名利の外表に浮び出ようとするよりも、さらに潜心的になって「道」への究明に没して行ったことが窺《うかが》われる。年表に拠《よ》って考えてみても、それ以後五十年ぢかくなるまでの彼の足跡は、青年期よりもさらに不明瞭にぼかされているからだ。——道から道へ、道から道へ、たとえば、西行《さいぎよう》の旅にも似て、芭蕉《ばしよう》のさすらいにも似て、それとは、意も行《ぎよう》も、形も違うが、遍歴に暮していたものと思われる。  すでに二十一歳の折に、また二十九歳の青年時代に、一乗寺村だの巌流島で、あれほどに、しかも京都や九州の中央の地から、武蔵の名は、相当に当時でも喧伝されていたはずである。——そうした時代の寵児《ちようじ》が、余りにも今日、遺されている事蹟の少ない点から見ても、彼の旅は、またその修行は、極めて地味な、——雲水的な、孤高独歩の境を好んで歩いたものであろう。 [#1段階大きい文字]   「道」の人・武蔵  彼の目がけた「道」への究明と、それに伴う「人間完成」の鍛錬のためには、どうしてもそう成らざるを得なかったに違いない。たとえば、武蔵が生涯、妻を娶《めと》らなかったという問題などでも、よく「なぜ?」という話題を生ずるが、それは身を賭《と》して一道に潜心することが、いかに血みどろな苦闘精進を要するかを知る人には、すぐ解ることだと思う。しかし、その道は、余人は知らず、当人には、またなく、楽しいものであったにちがいない。なぜ芭蕉は妻を持たなかったか、西行は妻を捨てたかという問題とも一つになる。芭蕉や西行の生涯の独身生活は、人は不思議ともしないのであるが、武蔵の場合には、よくそれが不思議がられるのである。しかし「道」のみでなく「剣《けん》」そのものには、いつも生死の覚悟がいる。宗教的求道者の多くが、また旅の空に生涯する者の多くが、妻を持たない以上に、武蔵が妻を娶らなかったことも、不思議ではないし、無理もないのである。  彼が細川忠利から宅地をもらって、安住の日を得た時は、もう五十七歳だった。  おそらく、妻を娶る間も、何を顧みる間もなかったのである。それでもまだ究《きわ》める「道」に対しては、これでいいと安んじていなかった。六十をこえた後まで、熊本市外の霊巌洞《れいがんどう》へ通って坐禅をしたり、燈下に著述をしたり、苦念していたのだった。それは彼にとって楽しいのであった。実に、生きるに飽くことを知らない人だった。 [#1段階大きい文字]   惨心の人か・幸福人か  彼の一生涯のうちに、世の中は、前にいったような急転変を告げた。関ケ原の敗戦に会い、その頃の�戦後派青年�のひとりとなって何も頼るもののない社会につき出されたのである。そして、暗黒な戦国末期から、次への過渡期を越え、江戸文化の初期にまで亘《わた》っている。この波の中に、彼は決して、処世には上手な人であったように思われない。いやむしろその転機の大波のたびに不遇な目に遭ったようである。おそらく二十歳未満に抱いた志であろうが、ただ、その間にも目がける「道」だけは離れなかった。  急変してゆく世相の中に立っても、彼の志操は変らなかったが、境遇はそれに順応して行った。彼は処世|下手《べた》でも、決して世にすね[#「すね」に傍点]たり、逆剣をつかう人でなかった。独行道《どつこうどう》の冒頭に、「世々の道に反《そむ》かず」と書いているのを見ても窺《うかが》われる。彼の孤独と不遇を、生涯、彼に持ち続けさせたものは、やはり「道」のためだった。求道一すじへの犠牲だった。彼自身は、それについて、みじんでも悔いたような痕《あと》はない。だから今日の僕らが、彼の生涯とその姿の一面を「惨心の人」とは観るものの、武蔵自身は満足して、いつも、いっぱいな志望と愉悦を持ちきって、終ったろうとも考えられるのである。その点、宮本武蔵を語るには非常な明るさがある。他の漂泊《さすらい》歌人の出家や、涙痕《るいこん》の行脚者《あんぎやしや》を想うほどな傷《いた》みがない。そして、それらの歌人や俳人の遍歴は、人間を避けて自然のふところを慕っているのであるが、武蔵のそれは、行雲流水の裡《うち》に身をおいても、いつもその視界は人間の中にあった。人間が常に解決しようとして解決できない生死の問題に、その焦点があった。その究明の目的として、形に取っているものが、つまり彼の「剣」なのである。 [#1段階大きい文字]   彼の短所と「独行道」のことば  それにしても、彼の晩年の哲理だの、高潔な隠操生活などから推して、武蔵が、弱冠からすでに大成した聖者めかしていた人間とは、私も考えていない。  むしろ人なみすぐれた体力と意力の持主であったことから考えて、欠点や短所も多分にあったと観たほうが本当だろう。得て一道に没入してひたむきな人間は、社交的には、人あたりのごつ[#「ごつ」に傍点]い、我《が》を曲げない、妥協しない、曲解され易い性情のあるものである。江戸幕府の一員と成ろうとして成れず、尾張の徳川家に仕官のはなしがあってまた成らず、その他の藩にも拠って志を展《の》べようとしたがそれも果さず、五十七歳で初めて細川忠利の知遇を得たなどというのも、どこか世と折合わない性格の一証ではあるまいか。  その他にも、随所随時に、武蔵の言行や逸話などを検討してゆくと、かなり肌に粟を生じさせるようなふしもあるし、もし現代のわれわれの中にいるんだとしたら、ずいぶん交際《つきあ》い難《にく》い人だろうと思われる点もあるが、それは時代の道徳や社会性格などをも、よく考慮してみなければ、一概に彼の短所とも云いきれないことかと思う。  それとまた、武蔵が、天正十二年の頃に生れたということがそもそも、すでに彼の素質に不遇を約束されていたような気もするのである。なぜならば、時流の大勢はもう赴《ゆ》くべき方向を決していたからである。槍一すじで一城一国を克《か》ち獲《と》る時代は、秀吉の出現と、その幕下の風雲児たちを最後として、小牧、関ケ原以後においては、もうそういう野の逸駿《いつしゆん》は余り求められなくなっていたし、また躍り出る機会もすでになくなっていた。  だが眼《ま》のあたりに、秀吉やらそれを繞《めぐ》る無数の風雲児の成功を見ていた時代の青少年達は、多分に自分も英雄たらんとする熱意と夢に囚《とら》われていたろうと思われる。そしてもう武力よりは文化的知性を、破壊よりは建設を——より多く求めつつ推移していた時代の推移を誤認して、いつまでも室町期以後の戦乱と機会ばかり窺《うかが》って、遂に過《あやま》った者が、どれ程あったことかと想像されるのである。  それは寛永や慶安の頃になってもまだ、夢から覚めない無数の浪人があった程だから、大坂陣、関ケ原役前の時人に、時流が見えなかったことは、むりもないのだった。武蔵なども、その弱冠の多血多恨な年頃には、やはり時流の誤認者のひとりだったかもしれないのである。そして時には時代に逆行し、時代に抛《ほう》り捨てられ、苦悶や滅失の底をずいぶんと、彷徨《さまよ》ったことだろうとも考えられる。  しかし、それにも訓《おし》えられて、彼の奉じる「剣」は乱世の兇器《きようき》から、平和を守る愛の剣へと変って行った。権力と武力ばかりをかざす器具に、人間本能を自戒する大切な「道」をもたせた。破壊や殺戮《さつりく》の剣から、修身の道と心的な道味を酌《く》んで行った。 [#1段階大きい文字]   反省の彼と「独行道」の言葉  彼以前にも、上泉《かみいずみ》信綱があるし、塚原土佐守があるし、柳生《やぎゆう》宗厳《むねよし》があって、すでに剣技は禅、茶、儒学、兵、治、武士訓などの日常のあらゆる生活のものを基盤にして「道」として確立しかけてはいたが、以上の三者は皆それぞれ一国一城の主《あるじ》や、豪族であって、身をもって世路の危難や艱苦の中を、行雲流水した人々ではなかった。  武蔵は、その点で道風の興立と達成に、選ばれて生れ出た使徒であるといってもいい。彼の生い立ちや境遇からして、約束づけられたもののように、自然に実践を重ねて行った。  武蔵以前の、上泉、塚原、柳生の三聖《さんせい》は、基本的な理論の発見者であり、武蔵は後輩ではあったが、身をもって実践した「道の行者」であった。  幼少からの不遇や、時勢誤認の失意や、次々の苦悩のうちから、武蔵自身も、また自己の行くべき目標を、その一路に見出して、初めて「行《ぎよう》」から「信」を得て行ったものであろう。それがかえって不遇な彼を、より偉大なものにして行った。また、それへ攀《よ》じ着くべく、自分の短所を壁書にして自誡独行道としたり、座右の銘としたりして、不断に自分の欲望や欠点を誡《いまし》めていた。反省力の強いということ。それは武蔵の性格中に見られる著しい長所の一つだと、私は思う。  有名な彼の遺文「独行道《どつこうどう》」の句々は、今日でも、愛誦《あいしよう》に足るものである。もとより彼の時代と現代とのひらきはあるが、玩味《がんみ》すれば、人間本能の今も変らない素朴な良心にふれてくることは否めない。それはまた、その題名が明示しているとおり、武蔵が人に訓《おし》えるために誌《しる》したものではなく、彼が自己の短所を自己へむかって、反省の鏡とするために書いた座右の誡《かい》であったところに、独行道二十一章の真価はあるのである。  だからあれをよく観て武蔵の心胸を汲んでみると、武蔵自身が認めていた短所と性格の一面が歴然と分ってくるのである。たとえば、   我れ事に於て後悔せず  と、書いているのは、彼がいかにかつては悔い、また、悔いては日々悔いを重ねて来たかを、ことばの裏に語っているし、また、   れんぼの道、思ひよる心なし  と自ら書いているのは、彼自身が自身の心へ云い聞かせている言葉であって、その情血のうちには、常に手綱を離せない煩悩《ぼんのう》やら、れんぼの愚痴やら迷いやらが、いかに複雑に潜んでいた彼であったかが、読みとれるのではあるまいか。  もし表面の文字どおりに、自身に何の不安も認めないし、枯木寒巌《こぼくかんがん》の高僧のような心境であったとしたなら、何も、あえて、そういう言葉書《ことばがき》を誌して、自戒とする必要はないであろう。ただあの辞句を批判的にのみ見て、武蔵の道念を高いとか低いとか、論じる人もあるが、私は以上のような見解から、他の五輪書や兵法三十五箇条などの遺文以上に、彼の独行道というものは、深く玩味《がんみ》してみると、そこに人間武蔵のおもしろさが津々《しんしん》とつつまれているような気がする。そしてここにも彼の強い反省心の特質と、不断の心がけが窺《うかが》えると思う。 [#改ページ] [#2段階大きい文字] 画人としての宮本二天   ——彼の画境と、その遺墨について  武蔵は、画家ではないが、画人ではあった。  もとより余技に描いたのであるが、その画は、卓抜した一見識のあるものである。武蔵研究のすすむにつれ、いまでは、日本美術史上からも、逸すことのできない一人となっている。  いま遺《のこ》っている彼の作品を見て、その画風を一括的にいえば、足利初期以来、北宋末から南宋の影響によって、たちまち、わが日本画界に一つの風《ふう》をなして来た、あの東洋画独味の墨の絵——溌墨《はつぼく》を以て自然に溶け入ろうとする心の絵——呼んで「水墨画」というものである。  それまでの純《じゆん》大和絵《やまとえ》的なもの、仏画系の様式は、宋元以来の水墨画の新しい刺戟に依って、まったく一革新の眼をさまされたものといわれる。そして、いわゆる室町画壇の、如雪、周文、霊彩、啓書記《けいしよき》、雪舟、秋月などの巨匠を輩出し、戦国期にかけてもなお、雪村《せつそん》、友松《ゆうしよう》、等伯など、おびただしい水墨画の全盛期を見せた。後には、日本画の妙といえば、水墨にあるようにまで、一般化したものである。  画史の上から観《み》れば、武蔵が、水墨画に親しんだのは、その最盛期ではなく、むしろ、気格を一義とする墨画としては、そろそろ内容的には堕落し始めた——水墨画末期であったといってよい。  だから、彼としては、決して流行的な風潮に乗じたのではなく、むしろ、ようやく本来の気韻《きいん》と精神を失って、技巧化しつつある時流の水墨画にたいして、不満をいだき、やがて自身、技術からでなく、剣を道として悟得したものを筆に托して、直入して行ったものかと思われる。  しかし、実際問題として、いくら剣によるひとつの自然直観がすぐれていても、筆のあつかいやまた、線描だの溌墨の技術には、相当な画修行もしたにちがいないことは、いうまでもない。ただ、彼の場合は、その最晩年作とおもわれるものを見ても、どこかに、素人《アマチユアー》らしい稚拙はあって、決して、職業画家の陥りやすい匠気や俗技を帯びていないところに、特長がある。また、そこに武蔵画としての、おもしろさもあり、剣人の画として、余人の追従をゆるさない別天地もある。  どうして、彼が、画を描くような気もちになったろうか。——理由はいろいろに考えられる。しかし、これは現代人のわれわれからは、一見奇異であるが、その時代の時代常識からいえば、べつだん、特別なことではないのである。驚くべきは、ただ、それが非常にすぐれたものであったというだけのことでしかない。  総じて——といってもいい程に、武蔵の生涯した時代にかぎらず、その以前の室町期でも、また以後の江戸初期の頃をながめても、一体に、むかしの人は、多芸多能であった。  こころみに、本阿弥光悦《ほんあみこうえつ》とか、灰屋紹由《はいやしようゆう》とか、松花堂|昭乗《しようじよう》とか、あの頃の文化人らしい人々を端から見てゆくと、工匠でも、僧侶でも、医家でも、公卿でも、商人や武将でさえも、何かみな余技をもっている。光悦のように、刀|研《と》ぎが本業でいて、絵もかく、陶器もやく、書道、和歌、蒔絵《まきえ》などの工芸にまで亘っている人というのも、稀れであるが、和歌のひとつも詠むとか、画でも描くとかいう程度のことは、殆ど、知性人の教養の一つといってさしつかえない。  剣の人でも、武蔵以外に、画人はないというわけではなく、自分は見ていないが、上泉伊勢守の新蔭堂に遺した自筆の絵伝書《えでんしよ》などは、永禄年間の風俗画として観るも興味がふかく、筆致も巧いものだということを聞いている。また、柳生家の人々が茶がけ風に描いたものなども、稀れにあるし、近世では、斎藤弥九郎の描いた渾南田風《こんなんでんふう》の花鳥図など見たこともあるが、それは精密な彩色画で、何か、意外におもわれたほどだった。  要するに、古人にとっては、余技もまた一つの人格構成の常識として、持たれていたにちがいない。現代人は、趣味を、自分の職業する�道�から忘れるために——慰労のために趣味に遊ぼうとするが——古人のそれは、反対に、自分の天職の�道�を中心において、その中心を研くために——画筆も把《と》り、書道にも心を入れ、能もやり、彫刻もし、茶室にも坐ってみる——という心がまえであったものと思われる。つまり、現代人の趣味目的は、放心的に。古人のは、求心的に。——そういう相違ではなかったろうか。とすると、かつての古人たちが、みな多芸多能であったことが、当然として頷《うなず》けるし、また、武蔵が常に「一芸万能ニ通ズ」といっていたことも、分ってくる。  しかし、宮本武蔵という名ほど、長く誤られて来たものはなく、その起因は、江戸時代に行われた全く根拠のない院本物、演劇などから来た先入主である。武勇伝物、仇討物、武者修行物の講釈師張りな通念が、岩見重太郎も、塚原卜伝も、荒木又右衛門もみな同じような型に語りつたえ、その中に、武蔵の名も同型な観念にくるまれたまま、漠然と、しかも動かし難い、先入主のうちに久しくおかれていたのである。  従って、彼が画人であったことなどは、全然、一般には無関心であった。ごく最近まで、それを意外とする感は知識人にすら多かった。武蔵の遺墨展を見たり、遺作に接して、初めて、彼の芸術的な半面を知ったという画家すらあった程である。  従って、過去の画史画伝の諸書のうちでは、画人武蔵の地位も、極めて、傍系的な一余技作家の程度にしか扱われていないことは、その当時の常識として、仕方がない。  白井華陽の「画乗要略」には、 [#ここから2字下げ] 「宮本武蔵、撃剣ヲ善クス。世ニイフ所ノ二刀流ノ祖ナリ。平安ノ東寺観智院ニソノ画有リ、山水人物、法ヲ海北《カイホウ》氏ニ習フ。気豪力沈」 [#ここで字下げ終わり]  と、みえ、また「近世逸人画史」には、 [#ここから2字下げ] 「武蔵、肥前小笠原侯ノ臣ナリ。剣法ニ名高シ。絵事ノ事ハ絶エテ人知ラズ。ソノ画風、長谷川家ニ出ヅ。二天トイフ印章ヲ用フ」 [#ここで字下げ終わり]  そのほか、本朝画纂だの、古今書画便覧だの、古画備考だのという画史の記載も、ほとんど、こんな程度のものである。  ただ、これらの画史伝のうちにも、往々、その頃の怪しげな流布本の武蔵伝をそのまま踏襲して、武蔵を、肥後熊本の加藤|主計頭《かずえのかみ》の臣としたり、吉岡太郎左衛門の二男といったり、巌流島を仇討としていたり、記載のまちまちなのは実におかしい。これを見ても、武蔵伝というものは、江戸中期以前から、まったく、真実が伝えられていなかったという想像がつく。  彼の経歴ばかりでなく、その画評や画歴についても、臆測のみで、一つも史的な確実さのあるものは見あたらない。「ソノ画風、長谷川派(等伯《トウハク》)ニ出ヅ」とあったり「海北友松ニ師事ス」と見えたり、「梁楷《リヤウカイ》ニ倣《ナラ》フ」とするのもあって、古来、そして今日までも、これにはまだ定説というものがないのである。  ただここで、特に、一言を要するものは、「増訂古画備考」の著者が、 [#ここから2字下げ] (——武蔵トハ、武蔵|範高《ノリタカ》トイフ者デ、剣客宮本武蔵ハ、絵ヲ描イテ居ナイ。所ガ、稀※[#二の字点、unicode303b]、武蔵トイフ同称ノ為、誤ツテ、範高ノ絵ガ、剣客武蔵ノ筆ト誤伝サレテ来タモノデアラウ) [#ここで字下げ終わり]  という疑問を出していることである。  この武蔵の画人否定論は、他書にもみえ、その出どころは「本朝画纂」の記事である。ところが、その本朝画纂の記載には、 [#ここから2字下げ] 「——宮本武蔵範高、小倉ノ人、剣ヲヨクシ、傍ラ絵筆ニ通ズ。人物山水ニ工《タクミ》ナリ、画中二天ノ印アリ、範高ニ嗣《アト》ナク、兄某家、小倉藩ニ仕ヘ、今、宮本八右衛門ト称ス」 [#ここで字下げ終わり]  とあって、まったく、でたらめに過ぎないことが、一見、明瞭である。  小倉には、武蔵の養子伊織が仕え、その子孫はつい近年まで門司に住んでいたが、同地の郷土史研究会の会員たちに会ってたずねてみたときも、同家の系図には、範高などと名のった人物はいないということだし、宮本八右衛門なども、当時の読ミ本や芝居には出てくるが、実在の人名ではない。それだけでも、別人説は、とるに足らない問題だが、異説は、とかく人の好奇をそそるものである。この一異説のほかにも、武蔵画はすべて、細川家の絵所《えどころ》の画家矢野吉重の作品であった。武蔵の有名なるがために、後人が吉重の作画に武蔵の印を款《かん》したものだという飛躍した仮説を立てた一文も、誰かが、その文章や写真版の載っている美術雑誌を私へ齎《もたら》しながら話してくれたこともあるが、いまそれを書架や反古文庫に探してみても、ちょっと見当らないので、反説も書けない。しかし、そういう奇説異説も、稀れにあったという一例までに記しておく。もちろん、権威ある美術史研究家のあいだには、問題にも何もなっていない。  武蔵が、どうして、絵画に関心をもったか。また自身、画を描き始めたかという動機を想定してみる場合、そこに�禅�の仲介があったということを除外しては、考えられない。  室町初期以来の——いわゆる足利水墨の興りを観ると、宋末大陸の画風をもっとも早く日本に招来したものは、いうまでもなく、五山の禅僧たちであって、馬遠、夏珪《かけい》の宣和画院系の墨画あたりから、梁楷《りようかい》、因陀羅《いんだら》、牧谿《もつけい》などの画品を携え帰って、これがやがて東山将軍家の鑑賞に収められ、例の「君台観左右帳記」にも見られるような淵叢《えんそう》を成したことは人も知る所である。当然、日本画壇の上にそれが大きな影響をもたらしたこともまた、画史の述べているとおりである。  雪舟も、周文も、赤脚子も啓書記も、|玉※[#「田+宛」、unicode7579]《ぎよくえん》も、みな画師ではなく、禅僧だった。当時、禅林のうちには、詩画をたのしむ者が多く、およそ禅僧であって詩も絵も解さないという者はなかったのではあるまいか。そして彼らの詩画が、必然に、禅味をふくみ、禅語を仮托し、画禅一味を主題としたのもまた、いうまでもない。  水墨画の生れ出たこういう系脈から、その余風は、戦国期を通じて、江戸初期にいたるも、なお劃然とした一境地を、画壇のうちにもっていたのである。  狩野《かのう》正信、元信などを祖とする狩野派が起り、土佐絵系の復興が見られ、また安土、桃山文化などの新時代の風潮に適応して興った永徳、山楽などの豪宕《ごうとう》絢爛な障壁画のある一方、すでに光悦風のあの新しい様式、また宗達画などの琳派《りんぱ》の発祥も見られながら、なお、前にいったような淡雅、気品、禅味などを生命とする水墨画の一群は、依然として、画僧や士人や茶家などの愛賞のもとに行われていた。  武蔵が、師事したのではないかと臆測されている海北《かいほう》友松も、長谷川等伯も、要するに、この水墨画末期において、その病弊に陥《お》ちず、よく個性を示した当代の巨匠たちであった。同時代の画僧に、松花堂と号した滝本《たきのもと》昭乗などもあり、雪舟門の系脈をひいた雲谷等顔《うんこくとうがん》だの、継雪村《けいせつそん》だの、幾多の作家を見ることができる。  武蔵の画が、友松に習《まな》んだ所があるとみえたり、等伯に倣《なら》うかに見えるのも、要するに、時代の相似ではあるまいか。直接、師についたという確証は、史証的には、何もない。——梁楷を慕うといわれるのもその通りで、友松の墨画は、そもそも梁楷からその骨法をとっているとされている。そういう観方からすれば、武蔵の画には、梁楷風もあるし、友松に通ずる筆法もあるであろう。等伯が、もっぱら、牧谿《もつけい》の風《ふう》を慕っていたといわれる如く、武蔵画にも、どこか、牧谿にさえ、似ているところがないとはいえない。  しかし、こういう問題は、専門美術史家にとっても、まだ確説をみないむずかしい研究で、われわれ素人《アマチユアー》鑑画の立場からいえば、しいて、武蔵は誰に師事したとか、その画系は誰に依るという追究はそう重要なことではない。ただ、以上の概念だけあれば、およそ、彼の画を観るうえに、ひとつの基本にはなると思う。 [#改ページ] [#2段階大きい文字] 武蔵の画と書を通して   ——画人二天の横顔とその風流境を窺う  剣と禅とは、所詮、べつな道ではあり得ない。  だから、剣の悟道の話は、即、禅に通じるし、禅林の佳話《かわ》は、また、そのまま剣人のそれに共通する。  日常の心的生活においても、禅は、武士の常識ですらあった。まして、剣への直観を研《みが》こう者には当然その第一門を禅に叩くことになる。  沢庵《たくあん》が柳生|宗矩《むねのり》のために書き与えたという「太阿記《たいあき》」や「不動智」の内容を見ても、また、古来の剣人の筆になる伝書や幾多の著書を見ても、その殆どが、心剣一如の真理の探求に一致し、その心態は、そのまま禅の相であるし、その用語や導入の方法も禅家の味境と合致したものである。  象《かたち》の上に現わされた武蔵の剣を把《と》った動的な事蹟の裏には、また、彼が禅に沈潜した瞑想《めいそう》の静的な生活がいかに長い期間にあったかを思わねばならない。  遺墨として、今日伝来されている武蔵の画に「祖師像」の図が多いのを見ても、禅と彼との心契《しんけい》がわかるし、また殊に、晩年千葉城址から熊本郊外の霊巌洞《れいがんどう》へよく通って坐禅していたことなど思い合せれば、その生涯を通じて、彼の鍛錬も、彼の閑雅も、また剣を抜いて生死を一過し去る日の彼も、動静両面、禅より入って禅に脱しているといっても決して過言ではないであろう。  先頃まで博物館の特別陳列室に出陳されていた重要文化財「枯木鳴鵙図《こぼくめいげきず》」の一梢頭《いちしようとう》に描かれている鵙《もず》の姿から、観者が直視してうけるものは、画の巧拙や水墨の溌色ではない。禅機である。  武蔵の書に、横ものの幅《ふく》に、   直指人心  と書いた四字二行の遺墨があるが、その語そのままな鋭い澄明な眼が、あの鵙《もず》の画にもある気がある。 「闘鶏図」にもその禅境がある。野鴨《のがも》の図でも布袋図《ほていず》でも、武蔵の画にはどこか禅味がただよっている。或る意味では、彼の作画は「禅画」とも云いえられる。画人的な構想や要意から作られた画でなく、禅的な心境からむしろ不要意に生れ出たといったほうが、中《あた》っておりはしないだろうか。  近頃、俄然といっていい程に、彼の遺墨——殊にその画が世人から注目され出した。「枯木鳴鵙図」が重要文化財に指定されたのも、つい四、五年前のことである。美術批評家や鑑賞家の間にも、にわかに、彼の画について、論評や詮議《せんぎ》がやかましくなったようである。  では、武蔵はいったい、禅はたれに学び、画系は何派に属するものか。  生涯、彼が心を潜ませた方面においてすら、誰の門をたたいたか、誰と道契があったか、彼と禅家との交渉さえ、一字一行の文献さえ見出されない。いや、画系や禅家との交渉はおろかその本道とする剣道においてすら、   われに師なし  と、いっている。その通りなのかも知れない。五輪書の序文の一節、 [#ここから2字下げ] 兵法の理にまかせて、諸芸諸能の道となせば、万事に於てわれに師なし [#ここで字下げ終わり]  の流儀で、他の余技、書道も茶も放鷹《ほうよう》も蹴鞠《しゆうきく》も彫刻も、やったものと思われる。だから彼の画はどこまで、彼の知性を単に紙墨へ点じてみたまでの即興であり余技であって、美術批評的な見方や詮索はすまじきものとも考えられるが、一応、彼の半面を伝えるためにも、彼の画についてまだ多くを聞かない人々のために、自分も寸説を述べてみることにする。  いったい武蔵の画などというものは、特に見解を持っていた人のほかは、つい近年まで顧みられもしなかったものである。以前は、美術倶楽部の売立の中などにも、二天の画などという物が出ても、商売人は勿論、鑑賞者も、一顧もしなかった。  それというのが、先にもいったとおり、二天という落款のある画は、あれは宮本武蔵のことではない。九州に同名の凡手の画家があったのだ。それが宮本武蔵と混同されて来たのだ。——という説が信じられていた先入主などもあったらしく、書画商などの間には、よくそういわれたものだった。  その間違いは、先に記した「本朝|画纂《がさん》」の記事などから起っている。 [#ここから2字下げ] 宮本武蔵範高、小倉人、有二武略一、善二剣法一、傍通二絵事一 [#ここで字下げ終わり]  武蔵が範高などと名乗ったことはない。ついでに、彼の姓名や別号についていうならば、 [#ここから2字下げ] 幼名は 弁之助《べんのすけ》。また、武蔵《たけぞう》 姓名は 宮本氏(地名ヨリ)     新免氏(父無二斎ノ旧主ヨリ許サレタルモノ) [#ここから2字下げ] 落款には 二天、または二天道楽      印章のみの場合      武蔵筆、と書く場合 [#ここで字下げ終わり]  折々に違っているが、また書などにはいかめしく、新免《しんめん》武蔵《むさし》政名《まさな》藤原玄信《ふじわらのもとのぶ》、と書いたりしているものもある。  新免という姓は、晩年まで用いてはいたらしいが、その旧主から拝領の姓として重んじていたらしく、平常は宮本を通称としていた。そして名乗も、武蔵政名とよんだこともあり、氏も自身藤原とは書いているが、菅原氏《すがわらし》だという説もある。これは彼の家紋が「梅鉢」であった所から附会して後人がいったものであろう。  いずれにしろ「本朝画纂」の範高はどうかしている。そんな間違いから一部に、二天別人説も出たのかもしれない。  事の序《ついで》に、もう一言いえば、総じて、よく古画論評の引証としてつかわれる、江戸時代の画家評論家の筆になる画史評伝という類の書物ほど、あぶなっかしいものはない。田能村竹田《たのむらちくでん》の「山中人饒舌《さんちゆうじんじようぜつ》」とか、渡辺崋山の著書とか、竹洞《ちくとう》の「金剛杵《こんごうしよ》」とかいうあたりのものは、さすがと思われるが、前の本朝画纂を始め、ひどい出鱈目《でたらめ》が、いかにも多い。 [#ここから1字下げ] 「近世逸人画史」 [#ここから2字下げ] 宮本武蔵、肥前小笠原侯の臣、剣名最も高し。絵事の事はたえて人知らず。その画風長谷川家に出づ [#ここで字下げ終わり]  あたりはまだいい。肥前小笠原侯の臣はおかしいが、そう咎《とが》むべき誤りでもあるまい。  だが、「本朝古今書画便覧」の、 [#ここから2字下げ] ——武蔵、二天と号す。肥後熊本の城主、加藤主計頭清正の臣。宮本武右衛門の男、其実は、長州萩の城主毛利輝元の家臣、吉岡太郎左衛門の二男也。幼名官次郎、又画を善す。其画京師東事中、又相州小田原辺にあり。筆力長谷川等伯に似たり [#ここで字下げ終わり]  などは、あまり無茶もすぎる記事である。たいがいこの筆法で、画の筆者の輪廓《りんかく》さえ過っているのが殆どである。——にも関わらず、武蔵の画については、 [#ここから2字下げ] 長谷川等伯の流派を倣《なら》った、とか。 海北友松に師事した、とか。 梁楷の画風を慕ってそれを習《まな》んだ、とか。 [#ここで字下げ終わり]  とにかく何とかかんとか断じているのはおそろしい。それをまた、そのまま受取って帝室博物館編纂の「稿本日本美術略史」までが、 [#ここから2字下げ] ——武蔵画を好み、海北友松に学び、或は牧谿を模倣し、道釈人物花鳥を能くす。 [#ここで字下げ終わり]  などと書いているのは、その方面にはまるで素人のわれわれが見てもいけないと思う。不親切な記載の仕方であろう。  ではいったい、武蔵は誰に依って、画を習ったのか。  再度、疑問が出ようが、武蔵自身が、あれほど明白に、五輪書の序文に「われに師なし」と云い、「——兵法の理をもつてすれば、諸芸諸能もみな一道にして通ぜざるなし」と書いているのだから、それを信じたらよいではないか。  また、あの五輪書の序は、その文にも見えるとおり、 [#ここから2字下げ] 兵法の道、二天一流と号し、数年鍛錬のこと、書物に書き顕《あら》はさんと思ふ。時に寛永二十年十月上旬、九州肥後の地、岩殿山にのぼり、天を拝し、観音を礼し、仏前に向ひて—— [#ここで字下げ終わり]  から書き起して、 [#ここから2字下げ] 天道と、観音とを、鏡とし、十月十日の夜、寅の一点に筆を把《と》りて [#ここで字下げ終わり]  と、敬虔《けいけん》そのものの相《そう》で書いていることばなのである。「われに師なし」の明言に、微塵の嘘もかざりもありようはない。剣道においても然り、禅においても然り、画においても同様だったとなぜいえないのだろうか。そう猜疑《さいぎ》しては彼の画は分るまいと思われる。生半可《なまはんか》、雲谷《うんこく》の画風がどうの、牧谿がどうの、友松がいつの時代のと、考証癖が手伝ったり、江戸時代の画史画論の雑書の観念などが交じるので、よけいそこが混雑してしまうのではあるまいか。  で、自分などは、画《え》については何らの予備知識もない、ずぶの素人眼《しろうとめ》しか持たないので、武蔵自身のことばを信じて、同時に彼の画も、見た眼のままに感じるしかないのであるが、彼の画に対する限り、それがまた最も正しい態度であると信じてもいるのである。  なるほど、武蔵の画に接すると——といって私はまだ多くの真筆を観る機会にも恵まれていないのだが——一部自分が観た範囲においても、彼の画風というか、溌墨《はつぼく》というか、その筆触のあとには、多分に梁楷、牧谿《もつけい》、それから邦人の海北友松や狩野の影響らしいものが、われわれ素人眼にも、すぐ思い出されてくる。  だからというて、友松に師事したなどとは、何処からも証拠だてられるものはない。梁楷を学んだといっても、北宋の玉澗《ぎよつかん》、馬遠、夏珪《かけい》、牧谿。それから邦人の如雪、芸阿弥《げいあみ》、相阿弥《そうあみ》、可翁《かおう》、黙庵、雪舟、雪村、あたりの東山時代の茶の湯以後の諸作を思いうかべてみると、そのどこかに、武蔵の画との共通がある。においの似かようているものがある。構図の同想がある。描線の一脈相近いものがある。  この相似は、誰を模《も》したとか、学んだとか、そんな狭小な問題ではなく、もっと文化史的な考え方から観たほうが、素直に明瞭にわかる気がする。  要するに、彼に師はない。また、物に誰を学んだというのでもない。彼も時代の中に在った人である以上、時代の現われを画に帯びていたまでのことである。  布袋図《ほていず》のごとき、松花堂にさえ似ているといえばいえる。  しかし、自分はじめ、細川家の屏風「蘆雁図《ろがんず》」のような大作や、また重文「枯木鳴鵙図」のような傑作が、師もなく習練もなく、描き得るわけはないという不審は、どうしても解決しない。現代人の頭脳と常識では、むしろふしぎですらある。  私はそれについてこう思う。  彼の画には、写生がない。また、南宋の筆意や、藤原鎌倉以後の仏画の影響も見られない。土佐派の巧緻《こうち》や伝彩の華麗もない。——主体は墨である。  墨。——この東洋的な単一と深さと無限な色とを含んだものに、充分彼の好むところは合致していたし、また、墨なれば何処にでもあるし、遊歴中の身でも、読書随所浄土の式で、いつでも習画できるし、画三昧に耽《ふけ》ることもできる。  で、彼は墨画を主とした。  また彼の鑑画の眼は、その青年期の遊歴中に、自然養われたものだろうと思う。  武者修行と寺院との密接な関係を、ここでも考え合せずにいられない。  短い時は一夜二夜、永い時は半年も一年も、寺院に逗留していたことはままあろう。当時の民間では、容易に見難い名画とか美術品に親しむ機会は、貴顕の門を除いては、寺院のほかになかった。  そこには、中国からの宋、元の名画もあった。また、東山時代の巨匠たちの描いた襖《ふすま》、屏風《びようぶ》、幅物などもあったろう。なお、武蔵の壮年期にはなお現存していた海北友松の画も、松花堂の墨戯も、雪舟、雪村あたりの物も、長谷川等伯などの作品も、勿論、しばしば眼にすることができたであろう。  敢て誰の画風ということもなく、武蔵はそれらの画に親しむうちに、いわゆる彼のいう「一道に通ずれば万能に達す——」の信念で、独り描き独り楽しみ、いつとはなく彼の画格なるものができて来たのではあるまいか。またそこには、彼の天質に美を感味する素質と、それを表現する才能が、必然にあったことは勿論としてである。  それと、もひとつは、彼の知己、交友の感化というものも、非常にあったろうと思われる。茶の道に、或る日の閑雅を愛し、禅の交わりに、心の語らいをする友などあれば、そこには必ず画が語られ、書談が生じ、茶、禅、画といったような一味に浸《ひた》る機会が多い。また、興を感じてくる場合が多い。自分も一筆画いてみようかなどの創意もそんな折から生れてくるものである。  しかし、この知己の範囲も、武蔵の交友も、熊本に落着いた晩年以後のことは分っているが、五十歳以前の彼が遊歴中の前生涯では、殆ど分っていないのである。彼が蹴鞠《けまり》もやり、能楽にも通じ、また、その書や画の半面から想像すると、ずいぶん貴顕の門にも出入りしたのではないかと察しられるのであるが、殆ど文字の上において、その証と見るべきものは残っていない。  茶をやったのは、彼の何歳ぐらいからか。おそらくそれも、細川家へ行ってから後とは思われない。その以前小笠原家に足を留めていた折、また、出雲の松平家にあっても、諸家の門で茶の饗応にはしばしば招かれていたにちがいないし、禅家にも、ささやかな民家ですら、茶はさかんに行われていた時代なので、武蔵も壮年から或る程度のたしなみはあった筈に思われる。  茶事の場合は、貴賤の隔《へだ》てをやかましくいう当時でも、かなり貴顕にも近づき、多趣味な者とも知りあうので、そうした折々の影響は、武蔵の画にも、必然あったものと見てよかろう。  今日の茶席に掛けても、武蔵の画が、茶席にぴたと融和しているのを見ても、武蔵が相当にふかく、茶人でもあったことを証拠だてていると思う。  一面、彼のあった慶長から元和にわたっての絵画や工芸は、狩野永徳《かのうえいとく》、松栄などの歿後、狩野山楽や俵屋宗達《たわらやそうたつ》などの障壁画《しようへきが》に代表されたように、豪華絢麗を極めた桃山風のまばゆい時代だった。  その中にあって、彼も或る頃には、供の者六、七名を連れて遊歴したこともあるとはいうが、彼の作画などには、いわゆる桃山時代色の片鱗《へんりん》も影響していなかった。むしろ一時代前の東山趣味ともいえる、燻《くす》んだ墨と、粗描の線と、多くの余白との中に甚だしく余韻《よいん》を尊んでいた。  彼が描《えが》いた図がらにはまた、或る極限があった。今日|遺《のこ》っている作品でも、山水は極めて少ない。わずかに横物の破墨一、二点が真筆として伝わっているだけである。  いちばん多い図は祖師像——達磨之図《だるまのず》である。達磨|頂相《ちようそう》、蘆葉《ろよう》達磨など、この図はかなり多く現存している。  人物画では、布袋図、花鳥図では鷺《さぎ》、雁《かり》などが多い。野馬の図、楢に木菟《みみずく》、柳に鵯、梅花に鳩、葡萄に栗鼠《りす》など、わりあいに画題を多種に扱っているが、それとてどこか、古画の構図のにおいがする。独創的な構図とは思えぬ図が多い。その点で「枯木鳴鵙図」はまさに武蔵の心画である。墨画として清新の気眼を拭うものがある。非常に新しい。  あの画を、画として論じるならば、到底この程度の評語では尽きない。武蔵としても怖らく会心の作ではなかったろうか。あのかなり長条な聯落幅《れんおちふく》の紙中の左端の下から、逆筆で一気に紙の中央を上まで突きぬける程持って行った筆の痕《あと》をじっと見ていると、 [#ここから1字下げ] われに師なし。兵法の理をもつてすれば [#ここで字下げ終わり]  と武蔵が自身いっている声がどこかで聞える気がする。どうして梁楷があの一枝の枯枝でも描こう。友松でもない、等伯でもない。いわんや後年彼が身を寄せた細川家の抱え絵師矢野|吉重《よししげ》などの雲谷派《うんこくは》の筆風ではありえない。  考証好みする人は、その矢野三郎兵衛吉重の門人帳に、武蔵の名が見出されることや、また、同じ細川藩の抱え絵師であった点などから、晩年吉重について画を学んだとする者もあるが、早計であろうと思う。恐らくは訪問の折にその問帳へ記名ぐらいはしたかもしれず、また、吉重との間に絵画のはなしなどは交わされたこともあろうが、門人帳に麗々と載っていることからして不審である。田能村竹田が若年の時、たった一度、文晁《ぶんちよう》の門を訪れたために、若くして文晁に学ぶと、その画歴に書かれたようなもので、武蔵と矢野吉重との間も師弟というような関係では決してなかったと思う。もし、その門人帳なるものが、武蔵の歿後人に示されて、武蔵は我が家の門に画事を学んだと矢野吉重の口から称したとすれば、かえって吉重の人がらが卑しまれることである。  また、事実、晩年の画をつぶさに見ても、吉重について、画風に変化が起ったような風も見えない。  ただ、熊本の野田家(武蔵の円明流の継承者で、細川藩の師範野田|一渓《いつけい》の裔《えい》)の子孫の家には、武蔵の遺品が種々残っていたが、その中に武蔵が画に使った雁《がん》刷毛《ばけ》があったということである。雁《がん》刷毛《ばけ》というのは、破墨などの大きな落墨をする際に、雁の尾バネを四、五枚重ねたそれを、刷毛代りに用いたもので、特に矢野雲谷派の雁刷毛といったものだそうである。  そういう遺品があった点などから見るも、画事について、墨とか紙とか、用具などに、吉重から便宜をうけたり批評を聞いたりしたことはあるかもしれない。またそれに対して、慇懃《いんぎん》、武蔵も師礼を取ったかもしれない。けれど晩年絵を吉重に学んだとして武蔵の画を見るわけにはゆかない。なぜなら何ら吉重の画と武蔵の画とは本質的に影響が見えないからである。なるほど、吉重も雲谷派の一画匠として上手かも知れないが、たとえば同じ達磨像を見ても、吉重の画はずっと低俗である。一点一画、武蔵のそれとはいわゆる他山の石のものだ。  野田家のことに及んだので思い出したことがある。かつて私が熊本の史蹟を巡りに行った時、同行のN画伯の友人たちが集り、その野田家のうわさが酒間によく語られていた。  野田一渓種信というのは、細川藩の臣で剣道方を勤め、宝暦頃の人である。武蔵が藩に遺した円明二刀流の五代目の相伝を承け継いだ人物である。  武蔵の流儀は、彼が在世中の直弟子、寺尾藤兵衛|信行《のぶゆき》に伝えられ、藤兵衛から後は、寺尾郷右衛門と、新免弁助のふたりに相伝され、次第に幾派にもわかれて伝承されて行ったが、野田一渓種信は、その子野田三郎兵衛種勝と二代にわたって円明二刀流の正統を継いでいた。  この野田一渓はまた、画をよくした。  武蔵の自画像といわれる画は、一渓が画いたとか、一渓が伝写したものとかいわれている。  そういう関係から、野田家には武蔵の遺墨や遺品が一まとめ持ち伝えられ、それは古い長持にいっぱいあって、つい大正の初年頃まで、野田の旧家の土蔵の奥に押込んであったそうである。  明治から大正頃の野田家の当主は、野田|鋤雲《じようん》といって、井芹経平《いぜりきようへい》氏を黌長《こうちよう》とする熊本の済々黌《せいせいこう》の剣道と図画の先生をしていて、N氏や同氏の友人たちの仲間に、その鋤雲氏の子息も学友であった関係から、遊びに行った折など、その長持の中の雁刷毛だの遺墨を見せられたこともあるそうだ。  で、当年の記憶から、N氏は私を同行して、その野田家を訪れ、遺品を見せてもらうことになっていたのだが、熊本在住の人に聞いてみると、その野田家はもう十数年前に、家宅も売払い、所蔵の品もすべてその前に散逸して、野田家の人々の行き先も消息も、今では知る者がないとのはなしであった。  そういう噂が出るたびに、N氏を始め熊本の人たちが、口を極めて惜しがっていたのは、武蔵の遺品がいっぱいあったという長持のことだった。  聞いてみると、野田家の息子は、父鋤雲氏の歿後、さかんに遊蕩《ゆうとう》したらしいのである。何でも長持のなかには、武蔵が書損《かきそん》じた画稿の反古が、元結で束《たば》ねてあったりしたものだそうである。それを息子殿は、遊びの金をつくる度に、町の書画屋を連れて来て、長い間にぼつぼつ売ってしまったというのだ。  ひと束に、丸めてあった画稿という中には、達磨の図とか、達磨の顔とか、肩のあたりまでとか、未完成で反古とした書損じが、同じ図ばかり何枚となく一まるめにしてあり、花鳥画ならば、やはり同様に三筆四筆落して途中で止めた物が、幾つか束になったまま、長持の蝕《むしば》むに任せてあったということである。  それを、書画商の智恵で息子どのが、自分で書き足したり、偽印を作って、捺《お》したりして、かなり何年も遊蕩費にしていたのだという。  息子どのの友達のうちには、その恩沢の余慶にあずかった連中もあろう。当時を知っている人のはなしだから満ざら嘘とは思われない。世上流布されている武蔵の画のうちには、半分武蔵の真筆で、半分は野田の息子が描《か》いたものもあるわけである。  書き損じといえば、今、細川家所蔵の「蘆雁図」の屏風《びようぶ》も、伝えるところに依ると、君命で描いたものであるが、武蔵はそれを、三度も描き直して差出したと伝えられている。  また或る時、忠利《ただとし》公の前で、達磨の図を描いたが、どうしても意にみたない。邸に帰って眠った後も、それが心にかかって工夫していたが、深夜、ふいに起きて燈下で一気に描いたところ会心の作ができたので、初めて悟って、傍らの門人へこういったそうである。 [#ここから2字下げ] 「自分の画はまだ到底、自分の剣には及ばないものだ。——なぜならば、きょう君公の御前で描けといわれた時には、どこかに、巧く画《えが》こう、君公が見ていらっしゃるというような気があったので、拙《まず》いものとなってしまった。——しかし今、自分の兵法の心をもって、無念無想の裡《うち》に描《か》いたものは、自分の意にもぴったりした物に描き上がっている。太刀を把《と》って立出る時は、われもなく敵もなく、天地をも破る見地になり得る我も、画に向ってはまだ、剣道の足もとにも及ばない」 [#ここで字下げ終わり]  と、そういって嘆じたという。  このはなしでも、彼の画が、単なる師法や模倣をうけて、甘んじていたものでないことは分る。  同時に、今日、重文にまで推されているほどな彼の画を、彼自身は、画はまだ自分の足もとにも及ばないもの——と嘆じていたかと思うと、いったい彼の剣道は、どれほど深遠な域にまで行っていたものか、想像も及ばない気がしてくる。  先に武蔵の印章のことをいったから、ついでに一言してみる。武蔵の画には、印章のみの物が多い。ほとんど、といっていい。  たまたま、武蔵筆ぐらいな、簡単な落款《らつかん》の記入したものもあるが、年号とか、自賛《じさん》とかのある物は、まったくないといっていい程である。  もっとも、画風としても、それのないのが当然ではあるが、彼の画歴や年代を観る上においては、まったく何の手懸りも得られないので、その点が遺憾である。  印章には、額形《がくがた》、香炉形、鼎形《かなえがた》、宝珠形、墨形の五種類ぐらいが今までの遺作に発見されている。けれど仔細に見ると、同じ鼎形なり額形の「二天」とある篆書体《てんしよたい》の印も、決して一様でないのである。印譜の上では、同形を幾箇も見ることができないので、確《しか》と知るよしもないが、真筆といわれる作品において、同形同種の印章でも、どうも幾分かの差異が感じられる。  思うにこれは、武蔵自身が、印章などは、何の意にも介していなかったのではあるまいか。失えば失ったまま、要あれば要あるまま、自分で刻しては用いていたように考えられる。勿論、彫刻にも手すさびのあった彼ではある。けれどその印章の刀痕《とうこん》についてみれば、決して巧みなものではない。篆書の字劃も彫りも、何様、素人彫《しろうとぼり》の手すさびらしい稚拙が見遁《みのが》せない。そして材はほとんどが木印である。  かつて、新聞の小ニュース欄に、M家に伝わる武蔵の花鳥図屏風《かちようずびようぶ》一|双《そう》が、博物館の陳列に新たに加わることが報じられている。細川家の蘆雁図屏風は、遺墨展などで何度かこれまでの間にも一般の鑑賞に機会を与えてくれたが、M家の花鳥図屏風は、初めての公開ではないかと思う。  私もまだ一見していないが、その屏風は以前から著名なものであった。M家の祖|保科正之《ほしなまさゆき》が、武蔵の人となりに敬愛して、肥後の細川家へ委嘱《いしよく》し、幾幅《いくふく》かの画を乞いうけたものを屏風にしたものだと伝えられているのみか、維新の際、若松城が兵火につつまれた際、この屏風が本丸の庭前に投げ出されてあったのを、一藩士が身をもって持出したために、幸いにも灰燼とならずに現存して来たという話まである。  この屏風と共に、M家に伝わっていた幅で、おどり布袋の図がある。杖に袋をかけた布袋がおどっている武蔵にしてめずらしく飄逸《ひよういつ》な図である。これはたしか今は、持主が転じていると思うが、その図上に題してある「迷はずばたのしみ多き世ならまし、をどる布袋はさもあらばあれ」という一首の歌は、武蔵の自画讃ではなく、保科正之の筆であるといわれている。そういう点からも、武蔵の画が会津の若松城に伝来されたいわれが裏書きされている。  武蔵の画は、何といっても、細川家と旧熊本藩士の家蔵として最も多く所蔵されて来たのは当然であるが、なお、姫路の本多家、小笠原家、榊原《さかきばら》家、有馬家、池田家その他所縁の大名の蔵からは、なおやがて未見の物が、いくつかは発見されて来る日があるのではないかと思われる。  自分が宮本武蔵を小説に書いているので、私に見せたら分ると考えちがいするのか、自分が熊本地方を旅行している間は、毎日、旅館へやって来られて二天の画があるので鑑《み》てくれませんかといわれ、断っても断っても、強いられるので閉口したことがある。殊に、熊本の一日亭に泊っていた二、三日などは、一日に三、四十幅も拝見させられた。  自分のような凡眼で見ても、そうして持ち込まれた画幅や書には、一点も真筆かどうだろうと迷うほどな物にも出会わなかった。すべてその作家のいたとか縁故の地ほど、その作家の真物は少なく、偽物の氾濫《はんらん》のひどい物だが、熊本、小倉|辺《へん》で示された物などには、似てもいないのが多いからひどい。  禅家の書の落款を入れ替えたもの、或は狩野風の無落款な時代物へ印章を後から加えた物などは、まあまあいい方というくらいである。  また、常々自分の宅へ遠方から送りつけて来る物にも、まだ一遍も頭の下がるような物があったことはない。この手数のかかる煩瑣《はんさ》にたえかねていつか紙上で小説の余欄に一度訴えたので、その後すっかりこういう人が少なくなったが、でもまだ依然、時折には知人を介したり何かして、鑑《み》てくれませんか、をいってくる。私へ鑑定を乞うなど、非常な見当違いであることを、いつも縷々《るる》極言《きよくげん》して謝《あやま》っている。  とにかくない。滅多にというより、絶対にといってよい程、真筆はない。  私の知人のあいだで、まぎれない真筆として拝見させてもらったのは、済々黌の井芹経平氏から遺物に贈られて持っているN氏の達磨図《だるまず》、故U氏の同図。また、近頃ではY氏の所蔵「武蔵像」の題語の歌の文字。それから、名刺をもらっておいて忘れてしまったが、石川県の方の人で、ふいに持って来たのであるが、観音経の写経一巻。これは写経であるので文字もまったく楷書の一字一字厳粛にかいたもので、武蔵の筆蹟といえる何らの他に適当な例証となる遺墨はないが、怖らく彼の若年時代の筆ではないかという気魄を感じる物だった。  かつて増上寺の前管長大島|徹水《てつすい》和尚と、京都のさる所で、よもやま話の折に、和尚が若い時代に岡崎の禅寺(これも寺名を失念)に伝来している観音経を見たが、奥書に年号と武蔵の姓氏が書いてあった。武蔵のことはわしは何やらいっこう知らんが、あれは真物じゃよ、あれは真物じゃよ、と何度もいっていた。偶然、私の宅へ持って来た写経は、それではないかと思われた。なぜならば、私が何も問わぬうちに、この経巻は岡崎の或る禅寺から実はわけがあって自分の手に移っているのです、といっていたからである。  結局、今、武蔵の真筆に接するには、遺墨展か博物館に出陳される折に見るしかない。勿論、巷間に絶無とはいわないが、以上のように稀れなのである。  その稀れなものが、しかも武蔵の作品中、第一の傑作といわれる「枯木鳴鵙図」を、偶然にも、自分の宅へ持込んで来たはなしがある。これは今の所蔵者は、長尾欽也氏とわかっていることだし、重要文化財に指定されて、その名幅たる位置も、厳然となっている今日なので、書いても決して、所蔵者をも画幅をも傷つけることにはなるまいと思われるので、閑話休題として、茶ばなしに語ってみる。  健忘症なので、もう十何年前になるか、八年ぐらい前か、よくは覚えていない。ただ、自分がまだ芝公園に住んでいた時代。そしてまだ朝日紙上に、小説宮本武蔵も書いていなかった頃である。——だから多分そのくらい前のことだったと思う。  時々、閑《ひま》な時、近くの美術倶楽部をよく覗きに行ったので、よく札元になる画商の店員が何かおのぞみはなどとすすめに来た。或る時、その店員が、相当な大幅らしいのを風呂敷につつんで、こういう幅が出ましたがどうでしょうか。物が物なので、こちらなら真向きと思ってお目に懸けに持って出ましたがという。  風呂敷を解かないうちに、何かね、と訊くと、宮本武蔵の画ですという。まず訊くだけで閉口した。その頃まだ、小説は起稿していなかったが、武蔵については、名人である、いや名人とは言えないなどと、直木三十五や菊池寛など、同人間でとかくよく話題になっていたし、武蔵の絵などが、そう風呂敷につつまれて、簡単に先から持って来てくれるわけのものでないくらいは自分も知っていたからである。  しかし、これは名幅です。どこやらに出品したこともありますし、それに箱書は、渡辺|崋山《かざん》がいたしておりますので——とその店員がいうので猶さら、吹出してしまいたくなった。そして、風呂敷から解かれる間にも、一つ二つぐらい、減らず口をいったと思う。  ところが、この減らず口の罰があたってしまったことになった。というのは、折角、箱の蓋《ふた》まで取って示すので、何気なく見ると、私も驚いた。ほんとに崋山が書いている。一見、真蹟である。例の崋山の力のある筆致で箱の裏に字句は忘れたがたしか短く二行ほどに書いてあったかと記憶する。勿論、印顆も明晰《めいせき》に捺《お》してあった。  箱は真物《ほんもの》だね。とまだそんなことをいったかと思う。そして幅《ふく》を一展《いつてん》した。聯落《れんおち》ぐらいな、そして紙中もめずらしく疲れのない、古びも程よい幅である。私は幅を下へ展《ひら》いて来ながらあの枯木と鵙の水墨にまったく恍惚と魅せられてしまった。  どうしてこんな名幅が風呂敷にくるまれて転々しているのか。私はむしろ不審を抱いてしまった。たしかずっと以前にも、この幅は博物館に出陳されたことがあったと記憶している。また、この幅について伝わっている渡辺崋山の逸話は有名なはなしである。一番最初は、崋山が町の一店舗から発見したものである。で、箱書をも書いているので、崋山伝のほうにも、よく出るはなしだし、また、何かの美術書でも、この画の写真版は見たこともある。とにかく、こんな見窶《みすぼ》らしい流転をする幅では決してない。  崋山が発見したという逸話を掻抓《かいつま》んでいうならば、或る時、崋山が四谷辺を通って、ふと一古物商の奥を見ると、一幅《いつぷく》の図が展じてある。凝視しばらく、崋山は歩むのを忘れる程、その画に打たれて呻《うめ》いていた。  はいって、値《ね》を訊《き》いたところ、案外高い値をいう。というても、四両か五両の程度であったろうが、崋山の貧嚢《ひんのう》では手が届かない。けれど帰宅後も、その画が眼底から消えもやらぬここちがしていた。折ふし弟子のうちの幕府の臣の某が見えたので、事を告げて、求めさせ、箱書までして、与えたものである。  そういうはっきりした来歴のある名幅なのである。この幅でもまた、先に書いたM家の花鳥屏風の図にしても、武蔵の画は、直観何ものか心線を打つものがあるとみえる。  花鳥屏風にはまた、こういう話もある。谷文晁《たにぶんちよう》が若松の城内へ召された時、M氏からこの屏風の図を、他日のため、同様に模写しておくようにと命じられた。文晁は、武蔵の図へ対《むか》って、つくづく眺め入っていたが、やがて、折角の御命ではござるなれど、この図は画法をもって描《か》いたのではなく、心魂をもって描いたものと覚えます。画技はいかようにも模し写しもなし得ますが、心魂は写すことが成りかねまする。無益のわざと覚えまするゆえ、どうかおゆるし願いたい、と断ったというのである。  わたしは、わたしのような一書生の貧屋に、こんな眩《まぶし》い名幅を持込まれ、ちょっと返辞にも困り、また浅ましいことには、これは何かうるさい事情でもありはしないか、さもなくてこんな品を小向いに持って歩くわけもないなどと疑った。  で、どうして売りに出したのか、わけを聞くと、その店員の方は決して私みたいに、こんなものに驚いたりなどはしていない。殊に、宮本二天などはほとんど向く客がない。実は今度、倶楽部へ出す客の荷の中にあったのですが、お望みなら荷主にはなして先へお取りになっておけば、倶楽部でお取りになるよりはお安くもなりましょうし——というひどく簡単な挨拶だった。  欲しいと思った。何度も繰り拡げて、未練がましく見たものだったのだが、自分などの趣味につかう金ではとても届かない値だろうし、また、小向いでこんな物を取って、後で何ぞいざこざ[#「いざこざ」に傍点]でもあったら嫌だし——などと思ったので、では倶楽部へ出るなら倶楽部で札を入れて貰うよ、とあっさり云って帰したものである。  が、それもつい忘れて数日経たぬうちに、私は関西へ旅行に立ってしまった。帰宅してからふと思い出し、あれの出る倶楽部はいつ頃かと、なお一脈の未練をもって電話して問合せてみたところ、もうきのうとか一昨日とか開札は終りました。へい、あの二天の画もさるお客がお取りになりまして——という返辞である。  まもなく郵便で開札の高値表が届いた。何気なく見てゆくと、宮本二天画、枯木鳴鵙図、五八〇円と落札値が出ている。謄写版《とうしやばん》のまちがいではないかと私は思っていた。で、その後その店員の顔を見た時、さっそく訊いてみると、やっぱり五百八十何円とやらいった。  それでも、その店員も、また美術倶楽部の札元たちも、決してそれが安かったとは、誰もいっていなかったものである。それ程、わずか十七、八年前には、武蔵の画には、一般の鑑賞家もまた、美術商も無関心で、たまたま、望む客があっても、むしろ物好きに思われるほどだった。現在の所蔵主へ移るまでには、なおそれから幾人もの手を転々して、価格も数倍、数十倍に昂騰して行ったに違いなかろうが、さるにても国宝級のものが、つい十七、八年前までは、そんな境遇にあったということが、何かおもしろく思い出されるのである。 [#改ページ] [#2段階大きい文字] 五輪書と霊巌洞  寛永二十年の晩秋、彼が、岩殿山の一洞に籠《こも》って書いた「五輪書《ごりんのしよ》」は、武蔵としても、畢生《ひつせい》の念《おも》いをうちこんで筆を執ったものにちがいない。それは、これにかかる彼の心の用意と、謹厳をきわめた精進潔斎《しようじんけつさい》ぶりと、そしてまた、五輪書そのものの書出し——序文を一読しただけでも、髣髴《ほうふつ》として、霊巌洞《れいがんどう》中の、一居士のそうした姿が眼にうかんでくる。  霊巌洞は、熊本市の郊外二、三里の距離にあって、かつて自分もそこの岩殿寺や、山下庵や鼓の滝のあたりなどを、武蔵の遺蹟を訪ねながら一遊したことがある。  熊本市の西南を囲む金峰山一帯は、ちょうど、京都の東山といったような位置と景観をもち、市街からその金峰山の峰道へ入って行った山ふところが、岩殿山、野出《のいで》、三之岳《さんのたけ》などとよぶ山地と山村で、高いところに立つと、有明湾《ありあけわん》の水光が遠く木の間から眺められる。  霊巌洞は、岩殿寺の奥之院というかたちで、寺からまた一山越えた山裏の中腹にあり、洞窟の前からも、有明の海が、はるかに見えた。  この辺りの、渓村や小さな滝津瀬などは、なかなか景趣に富み、肥後の小耶馬渓などともよばれている。旅客は、小さい枝付きの蜜柑《みかん》などを買って、喰べながら歩いたりする。小天《こあま》蜜柑とかいって、古くからこの辺の冬を彩っていたものらしい。  土地の人はこう云い伝えている。 [#ここから2字下げ] 「武蔵は、この辺の土地が、好きだった。それは自分の生れ故郷の景色と、この辺の景色がよく似ているからであった。閑《いとま》があると、岩殿山へ遊びに来て、幼い日のことを思い出していた」 [#ここで字下げ終わり]  私は、武蔵の出生地の讃甘《さぬも》地方も、くまなく歩いているが、なるほど、そういう伝統を聞いてみると、山村|磊寂《らいじやく》たる平和な小天地は、どこか似かよっているようでもある。  千葉城の居宅をあけて、始終、この山へ来ていたという武蔵の気もちには、ふと、人間の子らしい、そうした回顧もあったはずである。すでに、その頃の武蔵が、病がちで、余命を知っていたことも事実らしい。何よりは、精神的な打撃もあった。晩年無二の知己とたのんでいた細川忠利と別れたことは、多くの寂寞を彼に与えた。忠利死後は、藩にあっても、彼はまったく、日常の事を廃して、詩歌、茶道、禅画などに遊んで、そして、姿が見えないと思うと、この霊巌洞に来て、独り、座禅していたといわれている。  洞窟は、立って自由に出這入《ではい》りでき、ふところも広く、奥行は数十歩にして尽きるが、岸々《がんがん》たる大岩の袖で囲まれており、なるほど、瞑想するには、ふさわしい場所である。寺記によると、平安朝以前からの開基と、伝えられ、檜垣《ひがき》の媼《おうな》なる伝説の人が、国守清原元輔の頃、ここに観世音を祠《まつ》って以来のものといわれている。観音大士のほかに、洞外洞中に、五百羅漢の石像が、乱離と、あちこちに、仆《たお》れたり、倚《よ》ったりしている。が、これはずっと後代の物で、武蔵の時代には見られなかったものと思う。  それにしても、中は、ほの暗く、しばらく立っていると、岩肌の雫《しずく》が、滴々と、肩に落ちて来て、骨髄に沁み入るような思いがする。  武蔵は、ここに、坐ったのだろうか。  そして、素《す》むしろ[#「むしろ」に傍点]か、何かを敷いて、一脚の机と、一穂《いつすい》の寒燈を照し、あの五輪書を、書いたという。  五輪書の序文にある——旧暦十月上旬の頃といえば、もう冬で、洞壁の雫も、滴々の水も、氷のような冷たさであったろう。夜《よ》すがら、燭に、頬骨を照らさせて、遅々と、筆を持っている彼の姿を想像すると、思うだけでも、肌に粟《あわ》が生じてくる。——身を浅く思ひ世を深く思ふ(独行道の語)、たしかに、彼のことばは、彼自身をあざむいていない。  こうして、数年、彼の独慎《どくしん》と、瞑想《めいそう》がつづいた。徐々に、彼は死期のちかづきを、悟っていた。ところが、その頃、  ——世間、奇怪の説あり  と、一書に見える。つまり、霊巌洞中の彼のすがたや、山里の家から見える山中の燈火に、百姓たちが、いろいろ怪しんだものだろう。風説は、城下にも高かったらしい。そこで、藩老の長岡監物が、鷹狩に事よせて、武蔵の起居を、ここへ訪ねに来たりしている。おそらくは、世間の誤解もあるし、武蔵の老体を案じて、千葉城の宅へ戻るように、諫《いさ》めたものとおもわれる。  だが、武蔵は、ついに、ここの洞中で、座禅したまま死んだのである——とは、ここの岩殿寺で云い伝えていることである。もっとも、家僕として、増田総兵衛、岡部九郎右衛門の二人が、朝暮に、何かの世話はしていたらしく、すぐ二人が、武蔵を、熊本の私邸まで、背負って帰った——そして数日の後に、息をひきとったので、岩殿山では、まだ絶命はしていなかった——ともいうのである。  後者の説の方が、前後からみて、どうも真実らしい。  いずれにせよ、彼の五輪書は、こういう環境と、彼のこういう心態のもとに、書かれた。  全文は非常な長文であるから、元より、一気に書かれたものでなく、翌年、或は、翌々年までへかけて、折々、筆をすすめたものだろう。  全文を、地、水、火、風、空、の五巻にわけてある。  第一の「地の巻」は、兵法の総論、二天一流の基盤を説いているので、これを、地と名づける。第二は、身と心との、自由、無碍天放《むげてんぽう》の境地。いわゆる自然なるままの水の方円にしたがうの道を説いたので、これを「水の巻」と名づく。  第三は、「火の巻」である。第四「風の巻」それぞれあらゆる処身の妙を、微に入り、細にわたって、究理し尽してやまない。  その辞々句々を、細心に含味してゆくと、およそ、武蔵が、六十年の巷で、何を知って来たか、どう歩いてきたか、髣髴と、彼の生涯が、分ってくる。文字の表には、いわれてないことも、歴々と、彼の血みどろな解脱のすがたが——己れに剋《か》って来た足蹟《そくせき》が、読みとられる。要するに、五輪書も、かれの人生体験の外のものではない。  五輪書中、彼が、もっとも、力をそそいでいるのは、さいごの「空の巻」であろう。ここに至って、この書は、世の通念的な兵法書ではなく、荻昌国や以後の人もいったように、精密なる哲学書である。仏典、儒学、天文、諸芸諸道に参究して、そして、身一つを、犠牲として体得しえた、武蔵独自の哲学といってよい。  だから、彼を剣人というのも当らない。画人というのも当らない、哲人というのがほんとであるという人々もある。  哲人武蔵。それを知るには、五輪書を、精密に心読してみるにかぎる。ここにその全文を併載しようかとも考えたが、何分にも、長文すぎるし、|旁※[#二の字点、unicode303b]《かたがた》、どうしても、親切な註釈を伴わないでは、難解なふしもある。三十五箇条といい、また、五輪書といい、ただ漫然と目過しただけでは、おそらく現代人には、誤解される所があっても、ふかく心に沁み入って、自ら、眼を宇宙と人間にひらく所までは読み入れられないのではないかとも惧《おそ》れられる。なお心ある人には、べつに、武蔵の五輪書、三十五箇条、独行道などを、註解した著書も巷間にあるから、それについて、熟読された方がいいと思う。そこで、ここには、五輪書の序文だけを、その一端を知る手びきだけに載せておくことにした。 [#ここから2字下げ]   「五輪書」序(原文)  兵法の道、二天一流と号し、数年|鍛錬《たんれん》のこと、初て書き顕はさんと思ふ。  時に、寛永二十年十月上旬の頃、九州肥後の地、岩殿山に上り、天を拝し、観音を礼し、仏前にむかひ、生国播磨の武士新免武蔵藤原|玄信《もとのぶ》、年つもりて六十。  われ若年のむかしより、兵法の道に心をかけ、十三歳にして、初めて勝負をなす、その相手新当流の有馬喜兵衛といふ、兵法者に打《うち》かち、十六歳にして、但馬国秋山といふ強力の兵法者に打勝ち、二十一歳にて、都に上り、天下の兵法者に逢ひて、数度の勝負を決すといへども、勝利を得ずといふ事なし。  その後、国々所々に至り、諸流の兵法に行逢ひ、六十余度まで勝負すといへども、一度もその利を失はず、その程、年十三より、二十八九までのことなり。  三十を越えて、跡をおもひ見るに、兵法至極して、勝つにはあらず、おのづから道の器用ありて、天理を離れざるが故か、又は、他流の兵法不足なる所にや。  その後猶も、深き道理を得んと、朝鍛夕錬《てうたんせきれん》してみれば、おのづから、兵法の道に会ふこと、我れ五十歳のころなり。それより以来は、尋ね入るべき道なくして、光陰をおくる。  兵法の理にまかせて、諸芸諸能の道となせば、万事において、我に師匠なし。いまこの書を作るといへども、仏法儒道の古語もからず、軍記軍法の古きことも用ゐず、この一流の見立、実の心をあらはすこと、天道と観世音とを鏡として、十月十日の夜、寅《とら》の一点に、筆を把《と》りて、書き初めるものなり。 [#ここで字下げ終わり]  ——筆はそれにつづいて、「地の巻」と書き起し、以下五巻の長文にわたっている。時刻は、寅の一点とあるから、寒烈な冬十月十日の、明けの七刻《ななつ》(午前四時)に、暁起して、机にむかったものである。  序文中、生国播磨の武士とあるのは、母方が播磨なので、云ったものか。祖先赤松氏の支流なることを云ったのか、どちらかであろう。  三十六度の勝負も、越し方を思うてみると、自分の道がすぐれていて勝ったのではなく、他流の不足のためであったと述懐している彼のことばは、永く後世の驕慢者にとって、大きな反省を与えるに足ろう。  五十を過ぎては、尋ね入るべき道もない——としている所、まことに、哲人のつぶやきらしい。しかも、かれはなお、倦《う》むを知らなかった。序の語にあるように、朝鍛夕錬、なお、道に徹しきろうとしていた。 [#改ページ] [#2段階大きい文字] 「手紙の話」と「彼の筆蹟」 [#1段階大きい文字]   長恨歌の詩一句  彼の遺作として、今日、伝えられている物には、何といっても、二天印の水墨画がその大部分をなしているが、ほかにも幾点かの墨蹟《ぼくせき》。また彫刻。それに鞍、刀の鍔《つば》などの極くわずかな余技工芸品が見られる。  ここでは、彼の墨蹟について、少し立ち入ってみる。  しかし遺《のこ》っているその墨蹟物も、まったく、限られていて、ほとんどが、晩年、熊本に落着いてからの筆蹟ばかりといってよい。  それも主なものは、兵法に関する長文なもので、書自体が鑑賞されるような物は、ごく少ない。  森大狂氏が編纂した「宮本武蔵遺墨集」を始め、かつて高島屋で大規模な企画のもとに展観した時の目録を見ても、大体、筆蹟の物は、次の品目に限られていたようだ。 [#ここから2字下げ] 一 五輪書(長巻)地、水、火、風、空の五巻 一 三十五箇条序(巻) 一 兵法三十五箇条(冊子) 一 独行道(巻) [#ここで字下げ終わり]  これらは、たいがい、藩主細川忠利のために書いたのと、自分の知己とする者のために贈ったのが、今日、伝存しているわけだが、中には、後に、門流の人が伝写した、悪意でない他筆の物も往々にしてあるので、それがよく武蔵の真蹟として混同されたりしている。  以上の中で、熊本の野田家に伝わった「独行道」は、正保二年五月十二日という奥書があり、武蔵が死の数日前に書いたものであることが明らかなために、まま彼の独行道を以て�武蔵の遺戒�とする人もあるが、独行道は、決して、ひとのための遺戒ではなく、彼が剋己して来た若年からの、彼自身の持って来た自戒であることは、その内容と文辞を見れば、疑う余地は全くない。  ところで、以上の兵法伝書の類を除いた、彼の墨蹟らしい物をあげてみると、 [#ここから2字下げ] 一 直指人心(四字)    大字横幅 一 戦気・寒流帯月澄如鏡 一行、竪 一 春風桃李花開時   秋露梧桐葉落時    二行、竪 [#ここで字下げ終わり]  この三点が、伝来も明瞭だし、熊本でも、古くから有名になっている。しかし、なお同筆と見られて、影のちがった物が、遺墨展などに見かけることもあるが、変った語だの歌だのを書いた書幅などは、ほとんど見ない。  そこで、こういう点が考えられる。武蔵は、まま、気まぐれに、画は人にも示し、乞われれば需《もと》めにも応じたらしいが、書には、全くその例がない。書には、画ほどな興味も自信もなかったのかもしれないということだ。  しかし書道の面から見ても、彼の書格には、一脈の禅味と気魄があって、凡筆でないということは専門家も一致して云い、古来定評のある所である。わけて、彼の仮名文字には、剣の人にも似げないやさしさがある。平安朝期の仮名の系脈をひいた風趣すらみえる。仮名の書家といわれる神郡晩秋氏などの細微な観賞にただすと、武蔵の仮名はあきらかに近衛三藐院《このえさんみやくいん》の影響をうけているといっている。殊に「の」の字の平たくくずれている書き方など明らかに、その特徴を共通しており、ひいては、必ず近衛三藐院と武蔵とも、何らかの交渉があったにちがいないと、自分に力説されたのを聞いたこともある。だが、われわれ素人眼から直感をいえば、仮名はとにかく、その漢字には、水墨画には理想化されている温潤《おんじゆん》な彼の筆が、書法には、骨気を露《あら》わしすぎて、一種のするどさをもち、凄愴なその人の半面が、蔽《おお》いようもなく現われていると云いたい。何か、親しみ難いものを覚えさせられる。 「直指人心」の四大字がその風趣であり、「寒流帯月澄如鏡」の一行も、自ら題するごとく、戦気瀟々、肌に粟を覚えるような筆勢である。おそらく武蔵は、こういうものを書く時には、単なる書風とか文字とかいうものを見せようとして書いてはいないにちがいない。その語がいっている通り、直指人心の禅機を——また寒流帯月の剣の秘微を——その心境になり切ってただ無我の一|揮墨《きぼく》を、紙の上へさっと落し去っているものであろう。 「春風桃李云々——」の二行は、有名な白楽天の長篇詩�長恨歌�の中の一章句である。長恨歌は、唐の玄宗皇帝とその寵姫|楊貴妃《ようきひ》との情事を歌った東洋恋愛詩中の代表的なものである。めんめんと数千字をつらね、漢王と美妃の享楽、溺愛、哀別、輪廻《りんね》までの、飽くまで、煩悩に始まって煩悩につきる人間慾と無常を詠《えい》じ尽して余りがない。武蔵が、こういう叙情的な詩に関心をもっていたということは、私には、ずいぶん興味のふかい点であった。武蔵という人間を、小説の素材として考えるうえに、独行道のうち「恋慕の思ひに、寄るこころなし」の一句とともに、彼の内面に潜《ひそ》む人間本能をさぐるに、もっとも重大な手がかりの一つになっていたことを、私は告白する。  もちろん、武蔵は、長恨歌全文を、愛誦もし、白楽天のあの艶麗にして悠遠な構想と宇宙観の示唆《しさ》に富んだ一章一章をふかく玩味《がんみ》もしていたであろう。けれど、私の興味は、単に、それだけの推測にはとどまらない。武蔵が、この大恋愛詩の一節をとって、これをすら、ただちに、剣の悟道に寄せて、考えているという事実である。  前には、書き落してあるが、この二行の書のわきには、なお細字で、次のような辞句が書き添えてある。 [#ここから2字下げ] 「是兵法之始終也《これへいはふのはじめにしてをはりなり》」 [#ここで字下げ終わり]  おもしろいと思う。あいにく、長恨歌は余りに長篇だし難解でもあるので、ここに詳解し難いが、あの一篇を吟誦し去って——そして、コレ兵法ノ始ニシテ終リナリ——を併《あわ》せ思うと、恋愛と闘争。情痴と宇宙。——余韻《よいん》津々《しんしん》たるものがある。 [#1段階大きい文字]   少ない彼の書簡  ごく最近、私は、武蔵の遺墨としては、真に珍しいといえる新発見の一資料に接することができた。それは武蔵自筆の書簡である。  由来、武蔵の書簡というものは、実に少ない。というよりも、書簡はないといってよいくらいだ。いったい、古人の経歴、性格、日常生活などをさぐるにあたっては、その自筆書簡ほど重要な手懸りになる物はないのだが、武蔵の場合には、ほとんど、その経歴構成の脊梁をなすべき——彼と周囲との消息の類が全く欠けている。これは、正確なる武蔵伝を観《み》、或は想像を立てる上に、致命的な困難をもつ大きな理由の一つである。  彼が、細川家に禄仕する前後の二、三の上申書みたいな物や、家老長岡監物宛の同型の物などは、書簡と見るわけにはゆかないし、それを除いては、従来、顕彰会本にも、各所で行われた遺墨展でも、書簡は一通も発見された例しがない。——強《し》いて、自分の乏しい記憶を辿れば、自分がまだ朝日紙上に小説宮本武蔵を連載していた頃、広島の一読者から、自分の所蔵にこういう書簡があるといって、この写しをわざわざ寄せられたことがある。今、自分の雑記帳を、繰りさがしてみたところ、幸いに、その原文を録しておいたので、写真はないが、内容だけを、ここに掲出しておく。 [#ここから3字下げ] 〔宮本武蔵書状〕広島市八丁堀新見吉治氏旧蔵 [#ここから2字下げ] 尚々《なほなほ》、此与《このよ》右衛《ゑ》門儀《もんぎ》、御国へも可参《まゐるべく》候間、被成御心付《おこころづけなされ》候て被下《くだされ》候はゞ、可忝《かたじけなく》候、以上|其後者《そのごは》、以書状《しよじやうをもつて》不申上《まをしあげず》、背本意《ほんいにそむき》奉存候、拙者も今程、肥後国へ罷下《まかりくだ》り、肥後守|念比《ねんごろ》ニ申候ニ付而、逗留仕居候、於其元《そのもとにおかれ》御懇情《ごこんじやう》ノ段《だん》、生々世々忝奉存候、我等儀、年罷寄《としまかりより》、人中へ可罷出《まかりでるべき》様子無御座、兵法も不成罷体《まかりならざるてい》ニ御座候、哀れ今一度、御意度得存候、然者、此与右衛門ト申者、我等数年、兵法などをしへ如|在《ある》なき儀ニ御座候間、御見知り被成候て、以来、被掛御目《おめかけられ》候ハヾ、可忝候、猶|重而《かさねて》可得御意候、恐惶謹言(原文のまま、句点)   八月廿七日 [#地付き]宮本武蔵    [#地付き]玄信(花押) [#ここで字下げ終わり]  寺尾左馬様      人々御中 [#地付き]【原寸、縦一尺一寸八分、横一尺六寸九分】   この一書簡も、つぶさに見てゆくと、なかなか手紙のもつおもしろさや示唆がいろいろある。  武蔵が、細川忠利をたよって、熊本に来た当時のものであることは、すぐわかる。そして、年来、自分が目をかけている与右衛門という人物を、宛名の者へ、紹介しているのだが、この与《*》右衛門なる者が、武蔵とどういう関係にあったか、従来の史料にはまったく見えていない。  文意によれば、武蔵自身「——兵法など教へあるが如く無きが如く」と微妙な云い方をしている。いわば弟子でもあり弟子でもないといったような関係らしい。しかし「年来」といっているから、熊本に来る久しい以前からの仲だったには間違いない。いずれにしても、彼と生活も共にしたり、或は、遊歴中にも同行していたような一人物ではなかったかと想像されるのである。  宛名の寺《**》尾左馬という人物も、自分には心当りがない。細川家の藩老、寺尾孫之丞勝信、また信行などの同族の人で、しかも熊本を離れた知行地に在任の者でもあろうか。そんな考えもうかぶが、あてにはならない。宿題として、なお他日再考してみる。 [#ここから6字下げ] 〔編集部註〕 * 竹村与右衛門尉頼角、尾張円明流の祖 **尾張 寺尾土佐守直政 [#地付き]以上、新見孝氏による  [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#2段階大きい文字] 島原役における彼の書簡   ——終戦後世に出た有馬家文書中の一資料  書簡と武蔵との、概念をいうために、本題がすこし横道へ反《そ》れたが、さて、自分がこれから説こうとする新発見の一書簡は、つい本年(昭和二十五・春)たまたま、吉野村の茅屋へ来訪された未知の一青年が、無造作に、一括した古文書と共に、風呂敷づつみから出して、「ひとつ、鑑《み》ていただきたいのですが……」と、示されたものだった。  いろいろ話しているうちに分ったのであるが、この人は、もと有馬家などへ出入りしていた青山学院附近のS古書店の息子だった。抱えて来た一括の古文書類は、その古書店をやっていたN青年の父親が、ずっと以前に、有馬家の書庫整理の際に、一まとめに買入れておいた物だという。  古文書類はすべて、寛永十四年に、肥前島原地方に起った世にいう�天草の乱�——切支丹軍の蜂起《ほうき》と、幕府の討伐軍との一戦乱があった当時の関係文書に尽きていた。  その島原陣には、幕府から板倉重昌が司令となって遠征した。しかし思いのほか、切支丹軍の勢力は強大だったため、幕府は、さらに、松平信綱や戸田氏鉄などを、首将に任命して西下させたが、その間に、板倉重昌の戦死するなど、一時、西日本一帯に、騒然たるものがあって、翌年三月下旬に、やっと原城を陥落させ、ひとまず、平定を見たものだった。  原城は、もと有馬氏の分城だったが、この時、板倉成政に任せられていた。しかし、近藩ではあり、如上の関係から、有馬家は、終始、先鉾に立って、もっとも力戦した。  武蔵も、この折、豊前小倉の小笠原家の人数に加わって参戦していた。武蔵の養子宮本伊織が仕えていた関係によるのである。そして伊織は、侍組の一隊長という資格であったという。  N氏が私に拡げてみせた古文書のすべては、その時の有馬家の祐筆や陣務の士が、家録に備えたり、また幕府へ報告するために記録しておいたらしい地図、陣名簿、往復公文書の写しなどで、かくべつ私にとって、興味をひくほどな物でもなかった。  しかし、それと附随して伝世されて来た一函の書状筥があった。特にそれを納めるべく作ったもので、黒塗の上に、金粉文字で、「島原御陣之節之御書状十六通」という函題が蒔絵してある。  保存がよく、中の書状はみな、奉書折のまま、昨今の物のように思えるほど真っ白である。一通一通見てゆくと、みな島原在陣中のもので、宛名はすべて、有馬左衛門尉直純《ありまさえもんのじようなおずみ》となっている。乱の勃発した有馬領の当主であり、その最先鉾に立った有馬軍の大将である。  差出人の方の名には、参軍の各将の人々が殆ど見られる。松平信綱、立花宗茂、黒田忠之、寺沢|堅高《すえたか》、等々々のうち、とりわけ私がおもしろく思ったのは、山本有三氏が�不惜身命�という作品の中で主人公としている石谷《いしがや》十蔵貞清の書状などがあることだった。彼は幕府の旗本であり、島原陣には、総軍の軍目付《いくさめつけ》という大任をおびて西下していた。  それとまた、後に武蔵が身をよせた肥後の藩主細川忠利の書面も、二通まで、この中に入っている。文言は、各将いずれも、かんたんな戦陣の儀礼的なものでしかなく、内容については、さして、これという程な価値のある物とも思えない。  ところが、この十六通のうち、ただ一通、非常に手ズレもしているし、汚れのひどい一書簡がある。これは、他の奉書文書とちがって、紙質も杉原紙のように茶がかっており、何しろ、そッと披《あ》けないことには、折目からすぐ切れてしまいそうなほど、紙も墨色も窶《やつ》れている。  これが、武蔵の書簡だった。  武蔵の書簡として、これ程、まざまざと、明瞭なものはない。自分も初めての触目だし、おそらくまだ世間にも紹介されたことのない物にちがいないので、煩《はん》をいとわず、以下内容を詳述して、いささか、武蔵研究者の資に供そうと思う。もちろん、N氏も、それを希望しているわけである。  そこで手紙の内容であるが、その達筆とあの時代特有な文辞は、なかなか解読にむずかしく、おまけに紙ヤツレや淡墨の部分も判読するのに困難を極めるが、大体、次のように読まれる。(句点は著者。その他原文のまま) [#ここから2字下げ] 被思召付《おぼしめされつけの》尊札《そんさつ》忝次第《かたじけなきしだい》に御座候|随而《したがつて》せがれ伊織《いおり》儀御成に立申趣《たちまをすのおもむき》大慶に奉存候拙者儀|老足《らうそく》可被成御推量《ごすゐりやうなさるべく》候貴公様御はた下《もと》様御家中衆へも手先にて申置候|殊《ことに》御父子共本丸迄早々|被成御座《ござならせられ》(候)趣|驚目《きやうもく》申候拙者も石にあたりすねたちかね申故御目見得にも被仕不仕猶重《つかまつられずなほかさね》て可得尊意候《そんいをうべくさふらふ》恐惶謹言  辰刻《たつどき》 [#地付き]玄 信   [#地付き]宮 本 武 蔵   [#ここで字下げ終わり] 有 左 衛 門 様      小姓衆御中  文面で見ると、これは明らかに、武蔵が島原在陣中の、しかも原城陥落の激戦直後に認《したた》めたものだということが察しられる。  従来、彼が島原の乱に参軍したということは、碑文や後伝の書には記されているが、彼自身の足蹟として、証拠だてうる史料は何一つなかったのだが、この一書簡に依って、確実に、彼の島原参陣が明らかにされていることは、この書簡のもつ、もっとも大きな文献的価値といってさしつかえない。  殊にまた、彼の直筆として、「……せがれ伊織儀」と、伊織のことに言及している点など、親子の情も見るべく、歴々として、当年の心事を想到するに足るものがある。  文意の大体を、解説するならば——まずこうも云おうか。 [#ここから2字下げ] さきには、お心づけの御尊書をいただいて、誠にありがとうございました。くだって、せがれの伊織も、御成の事に(何か随身の列に立つことでもあろうか? なお後考を要する)立つそうで、よろこばしく思っております。また、わたくし事は、どうも老人の足のこととて、これはどうか、お察しねがいたいものです。  あなた様、御旗下様、御家中たちへも、(手先にて申置候——ここ、意味不明、原城乗入れのことかもしれない)殊に、御父子におかれては、本丸までも、早々にお立ち入りになったそうで、まことに、目ざましい心地に打たれたことでございました。私は、あいにくと、石にあたって、脛《すね》も立ちかねております。そのため、お目見得にもまだ伺えませんが、なお、かさねてお目にかかられるものと存じております。 [#ここで字下げ終わり]  ——文辞は非常にかたいようだが、含味《がんみ》してみると、用語、また前後の関係など、彼と有馬直純とが、決して、一朝一夕の知人という間がらではないことが、自ら頷けてくる。  元々、武蔵が遊歴中に、何かのことから縁故や恩顧をうけた藩としては、出雲の松平家、姫路の本多家、尾州徳川家、榊原家、小笠原家、またこの有馬家などが、挙げられている。中には、その当時にはあったこととして、一種の蔭扶持《かげぶち》というものを送っていた藩もあったというような説もある。  それはともかく、この書簡は、武蔵と有馬家との関係を知る上にも、唯一の文献といってよく、すでに彼ばかりでなく、伊織もまた、有馬直純に、辱知《じよくち》を得、従前からすでに、浅からぬ間であったことが窺《うかが》い得られる。  ——でもなければ、文中にあるように、貴人へ宛てる戦陣の中の手紙に、自分の足のことなどは、書くはずがない。  その足のことでは、武蔵はしきりに、自分の�老い�を喞《かこ》っているからおもしろい。若い逞ましい武者たちに伍して、いや先頭をも争って、彼も、原城の石垣を、城乗りにかかったと見るべきである。そこで、老足《ろうそく》と自嘲したり、また、敵の落した石に当って、脛も立てないでいると述べている。  先に掲げた寺尾左馬宛の手紙は、この島原攻めの時より数年後のものであるが、その文中にも、「……われら儀、年まかり寄り」といったり、「人なかへまかり出るべき様子にもござなく」といい、さらには「——兵法も罷り成らざる体《てい》に御座候」と述懐していて、何やら、非常に自身の老いを嘆じているような所がみえる。  しかし、これは、われわれの観念にある「老い」とはだいぶ隔りのあるものであることはいうまでもない。老格熟達の風を尊ぶ古人たちの間では、四十歳をこえるともう自ら叟《そう》といったり翁と自称したりしている例はたくさんにある。——正しく年齢的に考えてみると、武蔵が、熊本へ行って、細川忠利に客分として遇せられたのが、島原陣の三年後、寛永十七年のことであり、その時武蔵が五十七歳であったと(一説に五十五)いわれているから、この島原役当時、彼はまだ、五十三歳でしかなかったわけだ。単に、老いを嘆ずるには、余りにまだ早すぎるといわなければならない。  いずれにせよ、この一書簡は、僅々数行の短文に過ぎないが、いろいろな面から考えて、近来、愉快な発見だった。しかも武蔵研究史料の上にも、従来の兵法に関する伝書的なものの無味|乾燥《かんそう》に似たのとちがって、武蔵の風貌、心情など、当年の面影が脈々と汲みとれる所に尽きないおもしろさがある。こう観てくると、彼の遺墨中に、書簡だけが、極端に少ないということは、何としても、正確な彼の人間を知ろうという上には、いよいよ以て、致命的な欠陥である。——が、しいて望みを嘱《しよく》すれば、将来にも、また、どこかの書塵の間から、ひょっこり、この手紙のような物が、現われたりしない限りもないなどと思ってみたりするが……さあどうであろうか。 [#改ページ] [#2段階大きい文字] 画にも運命のある話   ——流転不遇の三名画  落款《らつかん》も印章もないが、武蔵画の作品中、第一作であり、また秀潤な傑作といわれている六曲屏風一双の「蘆雁図」は、明治二十年頃までは、熊本の北岡邸にあって、たれもそれ程な名画とも、また、由緒あるものとも知らず、日常、室の一隅におかれ、ずいぶん酷《ひど》い取扱いをうけていた物だといわれている。  それが、細川|護立《もりたつ》氏などの究明によって今日の保存を得たのは、ずっと後日のことで、細川家の膝下の熊本においてすら、明治頃には、武蔵の画に、さほどな関心も理解もなかったことが、この一事からも窺《うかが》われよう。  また尾張徳川家に伝わった「蘆葉達磨図」などもそうである。藩祖義直や、柳生兵庫などとも交渉のあった武蔵として、彼の画が、同家に伝わっていたことは、極めて自然なわけである。ところが、尾州家では、それをまったく、つまらない雑幅《ざつぷく》と一束にして、蔵帳《くらちよう》の目録にも加えてなかったのを、帝大の滝清一博士が、明治末年、べつな調査目的で、同家の什器を見に行ったとき、発見して「これは二天宮本武蔵ですから、もすこし丁重にしておかれたい」と、注意されたので、同家の者も、初めて武蔵との由緒を知り、にわかに貴重扱いにしだしたということであった。  重要文化財の「枯木鳴鵙図」すら、幕末ごろには、名もない古道具屋の店頭にさらされていた(このことについては、なお別項にしるす)程であるから、その余、一般の認識は、およそ察するに難くない。  だが、おもしろいことには、こういう流転や倉塵《そうじん》の不遇をつづけて来た名画が、揃いも揃って、一堂に展列され、天覧に供せられたことがある。  大正四年の東京帝国大学卒業式にあたって、陛下の行幸に、従来の例をやぶって、文科部出陳として、美術を、天覧に供すことになり、そのとき選定されたのが、 [#ここから2字下げ] 一 蘆葉達磨図   徳川義親所蔵 一 枯木鳴鵙図   内田薫作所蔵 一 蘆 雁 図   細川護立所蔵 [#ここで字下げ終わり]  の三種だった。  そして、その説明の任に当ったのが、当時美術史担当の滝清一博士であり、陛下にも非常に興味をもって御覧になったそうであるが、武蔵の画が、公的に、美術史の上にとりあげられ、しかもその頃としては、破格といえる、天覧の光栄に会したことは、以後の一般の武蔵観に、大きな刺戟を与えたものであったことはまたいうまでもない。 [#改ページ] [#2段階大きい文字] 自詠の和歌と、疑問の一句  画を描いた人である。また、あれほど一道に参究した彼である。五輪書の文章は、深遠、難解でもあるが、正しい文脈をそなえ、彼が、文筆にも無関心の人でなかったことが充分にうなずかれる。けれど、彼の詩歌として遺っている明かなものはない。ただ、伝えられる和歌数首と、俳句の一証が見られるだけだ。  武蔵の和歌として伝えられているのは、次のような、禅僧の歌にも似たものである。 [#ここから9字下げ] ○ [#ここから2字下げ] 世の中はたゞ何事も水にして渡れば替《かは》る言の葉もなし [#ここから9字下げ] 教内 [#ここから2字下げ] 人に習ひ我と悟りて手を拍《う》つもみな教内のをしへなりけり [#ここから9字下げ] 教外 [#ここから2字下げ] 習ひ子は悟りもなくていたづらに明し暮すや教外ならむ [#ここから4字下げ] 山水三千世界を万理一空に入れ 満天地をも契るといふ心を題として [#ここから2字下げ] 乾坤《けんこん》をそのまゝ庭と見るときは我は天地の外にこそ住め [#ここから9字下げ] 座禅 [#ここから2字下げ] 座禅して工夫もなさず床のうへにたゞいたづらに夜を明すかな [#ここから9字下げ] ○ [#ここから2字下げ] 見るやいかに加茂の競馬の駒くらべ駆けつけ返すも座禅なりけり [#ここで字下げ終わり]  稚拙といったら、実に稚拙である。和歌のかたちをかりて、べつな自分のいう所を述べているにすぎない。しかし、乾坤の一首のような内容、またその題語の調子などから見て、これは正しく武蔵の歌であると見ていいと思う。  このほかに、自分がかつて観た、彼の自画像の自賛の歌などもあるが、果たしてどうかは、確言できない。  それよりも私が興味ふかく思ったのは、往年、天理教の中山正善氏からわざわざ「武蔵の俳句がある」といって貸してくだすった天理図書館蔵本の「鉋屑集巻第二」という江戸初期頃の句集に、无何《むか》というその俳号と共に、彼の句が載せられていることだった。集中の俳人を見ると、播州、姫路、備中など山陽の地名が肩に書かれてあり、武蔵の句は——あみだ笠やあのくたら/\夏の雨——とある。そして宮本武蔵、无何《むか》と俳号氏名が併記してあるが、さてどういうものであろうか。不覚にも、私はその一本を長く借覧中、写真まで撮《と》っておきながら、奥付の印行書林の名《*》や、上梓された年代《**》をつい記録しておかなかった。——で今、にわかに思い出すすべもなく、単にその写真に拠っていうので、多くを述べられないが、もちろんこの一本は、武蔵在世中の発兌《はつだ》とはおもわれない。そして、果たして、武蔵が俳句を作ったか、また書中に見るような播州地方の吟友家などと名をつらねることをしたろうか、甚だ疑わしくは思う。けれど、まんざら根拠のない徒然事《つれづれごと》にこんな集に彼の名を加えたとも考えられないのである。後日、丹波市の同会図書館を訪う日があったら、もういちどあらためて「鉋屑集」について研究してみたいと思っている。小説宮本武蔵中に武蔵が、しばらくの佗び住居に「無可《むか》」という号を用いて浪居している一齣があるが、その号は、実は、この「鉋屑集」から思いついて借用したものであることも、ここで告白しておく。 [#ここから6字下げ] 〔編集部註〕 * 京都寺町二条下ル町 西田庄兵衛開板 **万治二暦長月中旬 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#2段階大きい文字] 愚堂和尚讃「二天画祖師像」について   ——武蔵と禅林との交渉の宿題  わかっていそうで、皆目わかっていないのが、武蔵と禅門との交渉である。  誰かひとりぐらいは、禅家の人物で、武蔵と心交の篤いものが知れていてもよい筈であるが、二天記その他、信ずべき武蔵史料中には、一行半句、そのことには及んでいない。  もっとも晩年熊本へ行ってからは、春山和尚《しゆんざんおしよう》との交友があり、彼のために歿後の碑《ひ》まで書いているが、これとて生前幾年の知己でもなかったし、その関係も、どの程度か、これについては別項の小倉紀行に書いておいた通りである。  小説の上では沢庵を借りて、その空白を埋めているが、沢庵と武蔵との直接な関係は、文献には見当らない。  私が多年知りたいと念じていたのは、彼が熾《さかん》な修養時代において、誰か、その方面の啓示を彼に致した禅門の人物があるにちがいない。世俗的な交渉はなくても、心的生活の一面で、心の師とか心の友とかよぶ人があるべきである。そういう宿題を多年抱いていた。  で、最初は沢庵の経歴を緯に、その交友と道業の知人を縦に、つぶさに調べて行ったが、沢庵と柳生家、沢庵と細川家、わけても沢庵と細川家の藩老長岡佐渡、その他京都を中心とする当時の文化人、近衛三藐院《このえさんみやくいん》だの烏丸光広だの松花堂|昭乗《しようじよう》だの——とその範囲は驚くべき広汎さをもって出ては来るが、武蔵の名は、その片鱗すらも、遂に見出すことができないのだった。  しかし私が、小説のなかに、沢庵を拉《らつ》して来たのは、あながちまた、拠《よ》り所《どころ》のないわけでもなく、武蔵の生地と、沢庵の生地但馬の出石《いずし》とは、山ひとえの背中合せだし、出石から山陽方面へ往来する旅には、常に武蔵の生地宮本村のある竹山城下が、その街道の一宿場にあたるし、そこにはまた、小さいながら禅刹《ぜんさつ》もあり、武蔵と沢庵との年齢は、沢庵が十歳ほどの年上だし、また、細川家、その藩老長岡佐渡、いろいろな間接的関係から推定して、武蔵と沢庵とのあいだを、知己としてもそう不合理ではあるまい——と推測して行ったのであるが、要するに推測は飽くまで推測で、史料として一片の証《あかし》ともならないのである。  創作の上では、それでも事足りてはいたが、一面そこの空白面は、史上の武蔵を突止める上において常に満されない気もちでいたところ、偶然、武蔵と禅門の関係について、ふとした物から一曙光を見出して、数ヵ月をその考究に費やして、まだ望むほどな解決は得られないが、ややそのことについて、暗示を得たここちがした。  それは一|幅《ぷく》の画讃の祖師像を、或る時、出入りの経師屋《きようじや》が持って来て見せてくれたことからだった。  それよりずっと前から、その経師屋は、私に、  ——上野の寛永寺の鐘撞堂《かねつきどう》に、昔から伝わっている宮本武蔵の画というのがあるんですが。  という話などしたが、武蔵の画というと、私はまたかという先入主に囚《とら》われて、よくも聞いていなかったが、その後何かのはなしから、そのことが出て、鐘撞堂に伝わっている武蔵の画は、数代前の先祖から門外不出といわれて秘蔵されて来たことだの、また、そこには抱一《ほういつ》や文晁《ぶんちよう》の頃から文人や画家がよく遊んだことだの、勝海舟が行って仮名書の横額に「なんでもない事」と書いていることだの、また、昔はそこの鐘銭《かねせん》というものを取って、上野を中心に刻《とき》の鐘《かね》が聞える江戸の何町四方の町家から、その鐘銭を取立てて暮していた家だとか、いろいろ面白いはなしを聞かされたので、そんな所に伝来する画だったらと、ちょっと見たい気持を起していたところ、昨年になって、その鐘撞堂の所蔵品の古書画古陶器の類がすこし売りに出されたとのことに、一見する機会に恵まれたわけだった。  表具も古い仕立のままで今日まで手入れをした跡はない。半切幅のやや短目《みじかめ》な紙中で、一展してゆくと、題詩が書いてあった。  画は、朱衣を着た「祖師像之図」である。その達磨大師《だるまだいし》の右の足もとに、印章が一箇|捺《お》してある。かつて、真物にも偽物にも、見たことのない角印で、宮本二天之印とある。  私はまずこれに面くらった。見当がつかないのである。およそ偽物の画というものには、必ず前例ある実物の偽印が用いられてある。殊に、武蔵の印章には、鼎《かなえ》とか、香炉《こうろ》とか額形とか、一定しているくらいな種類しか見うけられないので、ほとんどその範囲に限っているのが、これに依ると、大胆なそして素朴な印がべたと一つ捺《お》してある。  それと、この画は、武蔵の画の定規《じようぎ》とされている水墨でないこと。破墨一掃のあの調子でなく描線は一筆一筆慎重に引かれ、面貌や毛髪などにはかなり密な筆がつかわれている。のみか、祖師の衣には朱《しゆ》が施してあり、顔には代赭《たいしや》を耳の環には極めて微かながら金泥を落したらしい色すらある。彩画なのだ。武蔵の画にはほとんど見ないといわれているこれは彩色図なのである。  一見して、いけないと感じた。だが、祖師の眼光や、彩色の折、生乾《なまがわ》きの朱泥のうえに、強く太く引いた描衣《びようい》の線のつよさに打たれて、凡手ではない——武蔵の画ではなくても——これは凡画ではないと、なお見ているうち、題詩の文字に、また強く心をひかれだした。  賛をしている人も、いったい誰か、僧門の人には違いないがと、もう一度見直すと、 [#ここから3字下げ] 前法山 東寔敬題 ◯印 [#ここから2字下げ] 千古難消満面埃 龍顔不悦赴邦出 梁王殿上一徘徊 十万迢々越漠来 [#ここで字下げ終わり]  これも最初私は、この通りに右から読んでいたのであるが、後に、新井|洞巌翁《どうがんおう》からわらわれて、すべて敬題というふうに謹んで賛語を書く場合のものは、左が初句で、左から読んで筆者の落款《らつかん》が末尾となるのですと教えられた。  それはとにかく、画にはいろいろな疑問もわくが、書は微塵も俗臭のない、しかも墨色もいちども水をくぐっていない、いかにもありのままなものなのである。  誰だろう、賛の筆者は。  いろいろ首をひねった揚句、ありあわせの禅林諸家の名や、仏家人名辞書までひっぱり出してみたが「東寔《とうしよく》」という僧名はいっこう見あたらない。  それよりも先ず「前法山」がわからなかった。前法山《さきのほうざん》とは読んでみたが、法山とは何処か。  こういう風にこの幅は、全面疑問にみちている。それが私には面白かった。真偽はとにかく、もしかしたら、多年の宿題としている武蔵と禅家との交渉を知る何かの手懸りになるかもしれない。  これを齎《もたら》した経師屋の主人は、何十年も古画は扱っている人なので、紙質の時代や顔料の年代には眼がきくところから、糺《ただ》してみると、自分には武蔵の画はわかりませんし、武蔵の画といえばまあ素人考えでも、水墨ときまっているようですが、紙からいえば、これはずいぶんと古いもののようです。慶長は間違いございますまい。それに、てまえが感じているのは、この朱《しゆ》のいいことです。実にいい朱で年代の褪色も、紙質の古さと一致しております。てまえは経師屋ですから、それだけは保証して断言ができます。けれど、あとのことは存じません。武蔵の画かどうか、そこの所は私には保証も何もできませんから——と何度も念を押していう。  とにかく折角こういう宿題の物が出たのに、わけもわからず流転させてしまうのは惜しいし、以上の興味もあったので、仲介の云い値にまかせて私は手許に取っておいたが、さて毎日の新聞原稿にも追われているのに、面壁の祖師と睨めくらもしていられないので、いつか突っ込んだまま忘れ果てていると、ちょうど星ケ岡茶寮の林柾木氏が、美術研究所の脇本楽之軒《わきもとらくしけん》氏に会う用事があるとかで立寄られたので、序《ついで》といっては申し訳ないが、ひとつ鑑《み》ていただけないかと云って託した。  その前に私は、京大図書館で近衛家の文書史料を調べている井川定慶氏に宛てて、いったい東寔《とうしよく》とはどこのいつ時代の僧か、また、前法山とは何の意味か、ひとつ君の該博を以て調べてくれないかと依頼しておいたが、なかなか返辞が来なかった。  井川君は元、知恩院の住で、僧籍で大僧都の肩書まである半俗半僧の碩学《せきがく》だし、その方面の智識なのに、その井川君でも分らないとすると、これは難物にちがいない。ことによると、幅《ふく》の紙質が古くても朱泥がどうでも、或は案外近世の無名の坊さんが、ひょっと書いたりしたものじゃないか。出が寛永寺の縁故の所だし、東寔と東叡山《とうえいざん》とも、こじつければこじつけられない気もしないではないし——などと根気のない私はそろそろ匙《さじ》を投げかけていた。  ところが、ちょうど林氏が訪ねてくる数日前、その井川氏から、明細なる回答が来ていたのである。それに力を得たので、実は、脇本氏にも鑑《み》てもらう勇気が出たわけであるが、まず井川氏の回答からいうと、   前法山  というのは、何を意味するか、自分にも分らないので、日時を費やしていたが、曾根《そね》の円通寺住職杉田宗直氏に照会してみたところやっと分った。  円通寺は花園《はなぞの》妙心寺系の禅寺で、杉田氏は兵庫県の仏教聯合会の理事をしていられるが、妙心寺系の禅家のあいだでは、今でも、前法山とか法山之住《ほうざんのじゆう》とかいうことばは、用いられているとのことである。  前法山は、やはりサキノホウザンと読むので、前ノ法山ノ住——の略語であり、法山というのは、妙心寺の別称で、寺史古文書上では常用されている称だとある。  また、東寔については、妙心寺史に詳しいし、仏家人名辞書に載っている筈。ただし東寔で探したから索引できなかったのでしょう。東寔の名はあるが、それよりも愚堂で索《ひ》いてごらんなさい。  と、ある。寔《まこと》に幼稚なはなしだが、初めてその人の別号がわかったわけだが、同時に井川氏の手紙には、簡略ながら東寔の略伝を何かから索いて親切に書き添えてくれた。 [#ここから2字下げ] 東寔愚堂国師、天正五年四月八日、濃州|伊自良《いじら》に生れ、母は鷲見氏、大智寺の開祖、鷲見美濃守《すみみののかみ》が末孫といふ。 師八歳の時、富山陽徳軒の宗固首坐について学文を修め、十三歳初めて詩を作り、詩才衆を愕《おどろ》かす。 同年、東光寺の瑞雲《ずゐうん》に参じ、十九の春諸方の名師の門をたたく。 慶長十年、播州姫路の三友寺に掛錫《くわしやく》し、一詩を賦《ふ》して寺を退き、後、駿河の清見寺を訪ふ。又、備前の泰恩寺に到り、天長和尚の関捩《くわんれい》を透破し、繋留《けいりう》久しからず花園妙心寺聖沢院の庸山《ようざん》の室に投じ(中略)——三十五歳、初めて法山第一坐となり、美濃正伝寺の請に応じ、尋《つ》いで大仙寺の廃を興す。 寛永五年師五十二歳、堀尾|吉晴《よしはる》の女婿《ぢよせい》たる石川|忠総《ただふさ》の外護により、法山に瑞世《ずゐせい》し、紫衣を賜り、爾来《じらい》諸国|餉参《げさん》の衲子、師の道風をしたひその会裡に集るもの無慮—— [#ここで字下げ終わり]  愚堂の伝は、略伝としても、なかなかこんなことでは尽きない。骨相寒厳といった風貌の人で、逸事も非常に多く、わけて、後水尾上皇の御信任厚く、古来禁中での内裏殿上の説法は、禅林では愚堂を以て嚆矢《こうし》とするといわれている。  また、当時の名僧大愚、一糸、雲居などとも交わりふかく、戦国中御衰微の甚だしいうちに、怏々《おうおう》として御憂悶の深かった上皇の侍側にあって、一糸、烏丸光広などと共に、陰《かげ》にあって、勤王精神に篤《あつ》かった傑僧であった。  寿齢八十五、寛文元年十月|寂《じやく》。  法嗣として、十六哲がある。  無難、錐翁など、その系流から出ている。  在家の弟子には、岡本喜広《おかもとよしひろ》、石河昌勝《いしかわまさかつ》、中院通村卿《なかのいんみちむらきよう》、狩野探幽などがあり、なおずっと下っては、白隠を出し、白隠下の禅風みな、愚堂の法系をひいている。  横道へそれたが、大体まあそんなふうに、祖師像の賛をした人の輪廓がわかったので、林氏を介して脇本楽之軒氏の感想をきいていただいたところ、楽之軒氏は率直に、——賛については、自分には不明なので感想もないが、画だけについていうならば、画の陰影に、どこか洋画の影響があった時代のにおいがする。すると時代はもっと下りはしまいか。殊に、武蔵の画には、彩画は殆どないとされている。その点もどうか。また、印章にしても、武蔵の印として見たことのない印であるから、しばらくは疑問に措《お》かねばなるまい。紙質について、断言はまだできかねるが、そう古いかどうか、なお考える余地があろう。  そういう話だったとのことで、まず脇本氏は大体において、武蔵の時代よりは、もっと時代の下ったものという御見解らしく、とすればまた、自分の解しようにも、大いに益するところがあるので、礼状をあげておいた所、脇本氏から重ねて御返辞があり、いつか武蔵の画については、自分ももっと考究してみたいとの意向などあった。  すべて私にとっては、専門外の考究なので、脇本氏からそういわれると、そうかなあと思い、また突っ込み放しにしておいたが、ただ自分に、画はともかく、題語の愚堂和尚の賛が時折気になって、それだけはどう凡眼で眺めて、他人の戯れ筆や偽作とは思えなかった。いつ見ても、いかにも素朴な、禅林の人によくあるいかつさ[#「いかつさ」に傍点]や誇筆の風もなく、素直で淡々たるものが、そのありのままな墨色と共に、見ていていい気もちを与えてくれるのである。  偶然のこと。或る日、新井洞巌翁が私の書斎へ来て、ふと壁間のそれへ眼をやると、  これはいいな。  と座を立って、ややしばらく見ていたが、座へ戻って来て、自分も、五十年に近い南画人生活のうちに、宮本武蔵の画と称するものは、ずいぶん見て来たが、きょうほど何か真に打たれたことはない。これは武蔵の画のうちでも真に傑作といえるものでしょう。細川家所蔵の幾点かの作品と、他二、三の著名な物のほかは、そう自分で深い感銘をうけたものはないが、これなどは、驚目に値するものである。もとより、粉本《ふんぽん》があって描《か》いたものと思われる。呉道子《ごどうし》あたりかも知れない。武蔵の遺作に、彩画はないなどとよく誰もいうていることだが、あったって何のふしぎでもない。画を描《えが》くという心境、場合にも、生涯にはいろいろ変化もあり、せぬ事をしてみることも往々ある。そういう詮索はいらないでしょう。画面からうける気魄、筆触から出ている気稟《きひん》、申しぶんのないものだ。いいものをきょうは見た。そういって翁は帰った。  そうかなあ。ではいいのかもしれない。  と盲目の持主は、またやや曙光を見出して、そう思ってみると、画の筆魂が急に迫ってくる気もする。  それから数日後、舎弟が、東大図書室の蔵本中にある「新免家伝|覚書《おぼえが》キ」の一部を写さしてもらうことで、かねてお願いしてあった鷲尾順慶博士をお訪ねするといって出かけた。  急に思い出して、鷲尾博士ならば、仏家の筆跡や古文書の研究では、一人者であるから、序《ついで》といっては甚だ悪いけれど、あれを鑑《み》ていただいて来てくれと、舎弟の出がけに持たせてやった。そして、もし鑑定にむずかしいようだったら、帝大へ置いて来てもよろしいといった。  ところが、やがて持帰って来た弟のことばによると、鷲尾博士は一見して、こんなにはっきりしている物は研究の余地もありませんよ。紙質の古いところも元和から寛永、慶長までの間といって間違いはないでしょう。第一それに愚堂の書が明瞭である。愚堂の書は一体少ないものだけれど、自分も幾たびか見て来ている。武蔵の印もいいですなあ。朱と墨とが、描いた時に、どっちかが濡れている間に筆を重ねたので、そこがぼかされたようになっているが、洋画の影響といったような、意識的な技巧じゃないでしょう。とにかく、一見明瞭という物で、そう研究の何のと、宿題にする所のないものですよ。——といったような鷲尾博士の言だったというのである。  その折、鷲尾博士の言葉では、愚堂の書は、すこし若書きかも知れんなあと、呟《つぶや》いていられたそうであるが、その後また、京都のI氏を通じ、同氏知人G氏に鑑《み》てもらった結果、これは若書きという程、愚堂の若い時代の書風ではなく、相当年配になってからの書でしょうと、まず書の方にほぼ見極めをつけていただいた。  G氏は、紙屋川の法輪寺の住職で、ここは愚堂の師、大愚和尚の住んでいたお寺である。で、寺には今も大愚、愚堂の墨跡《ぼくせき》、尺牘《せきとく》、反古の文字までが数多残されているということであり、わけてG氏は、自身大愚と愚堂の遺作も蒐集され、寺祖の研究に、その方面からも長年心を傾けて来た人なのである。  で、二天画の祖師像に賛している東寔敬題の下の印章についてもG氏は一見すると直ぐ、  ああこれと同じ印章が、寺の所蔵の物にも捺《お》してありますよ、字劃寸法まったく同一です。その印は、一行の幅に捺してあるばかりでなく、何か檀家《だんか》の法号か何かを書いてやった小さな反古にも捺してあった物があったと思う。こんど蔵《くら》を探して出たらお目にかける。  今年の春になって、そのG氏から、御親切に同じ印の捺してある愚堂の書幅と、大愚の文字など、種々、写真に撮ったのを送って下すった。両者つきあわせてみると、寸分異っている所も見出せなかった。  折ふしまた、篆刻家《てんこくか》のM翁が、ぶらっとやって来た。この翁もまた、ひどく変った人で当代の画家では大観、靫彦《ゆきひこ》、蓬春《ほうしゆん》氏はじめ、この人の篆刻はみな愛しているらしいが、御当人は東京府の老人ホームにいて、仙人みたいに飄々《ひようひよう》としている恬淡《てんたん》な老人である。  私とは十数年前、お互いに震災後の東京から焼け出され、その頃は芋畑やキャベツ畑ばかりで人家も稀れだった高円寺に住んでいた頃、駅の附近の町へ出ると、よく会う老人がひょこひょこ歩いているので、話してみると、篆刻をやるといい、家族もあらまし焼死して、老人ホームにいるのだとのことに、その時、英治という印を刻《ほ》ってもらったのを、今もって失《な》くさずに用いているのである。——で、ぶらりと訪ねて来たのは、その時から十何年一足飛びに、二度目の会見なのだった。  いろんな話の末にまた、私が、  印のことは、貴方ならよく分るだろう。他のことは何もお願いしないが、この画の印章だけを、鑑てくれませんか。  祖師像を展《ひろ》げてみせると、M翁は、老眼鏡をかけ、顔を画にくっつけて見入っていたが、  ——これは、素人《しろうと》の彫った篆刻じゃろな。上の「沙門東寔《しやもんとうしよく》」の印も、下の「宮本二天之印」も、どっちも素人というと中《あた》らぬが、まあ刻刀などは持ち馴れぬ人が、手すさびに彫ったという所が当ったところじゃろな。  というて、決して偽印じゃないな。偽印というものは、巧くとも拙《まず》くとも、そこに邪《わる》い意志があるでな。すぐわかるもので、これは稚拙というても、そういう拙さではないですな。  いったい、昔の坊さんなど、よう自分で彫ったものでな。多くは木材じゃが、これなども、二つとも、木らしいな。  こういう篆書体《てんしよたい》の字劃も、寛永や元和頃なら、もう日本へ篆書の本が渡っているので、あってふしぎはないな。朱肉の色は、上の印と、下のと少し違っているのう。べつな日に書いたのかなあ。画が先じゃな。賛は後から乞うたのじゃろ。  このくらいでもうこの問題は結んでよかろう。要するに、東寔敬題となる愚堂和尚の賛だけは、ほぼこれで真蹟ということはいえるだろうと思う。すでにそれが確かめ得れば、紙が古紙か否かなどは、自然に解決することで問題ではなくなる。残るのは画であるが、画のないうちに、賛を先に書くわけもない。——してみれば、愚堂はこれに賛する時に、すでにこの画は彼の眼に見ているのである。  つまらない者が描いた無意味のものに、愚堂ともある人が、賛をゆるすべきはずもない。しかも、敬題するわけは絶対にない。  愚堂にすれば、自分へ賛を乞われた画の筆者が、誰であって、どんな精神で描いたかも、十分知った上での落筆であろう。でなければ、謹厳、敬題とはすまい。  また、武蔵の画には、彩色を施《ほどこ》したものは殆ど見ないといわれているものの、田能村竹田の山中人饒舌《さんちゆうじんじようぜつ》は「予、宮本武蔵ノ画|布袋《ほてい》図ヲ蔵ス、筆法|雋頴《けいえい》、墨色|沈酣《ちんかん》、阿堵《あと》一点、突々人ヲ射ル。又、設色馬十二題図ヲ観ル、朱ヲ施シ粉ヲ填《テン》ジ、濃厚ヲ極ム、而シテ俗習ナシ、鞍鞭鑑諸具ニ至リテハ、古式ヲ按ジテ之ヲ作ル」とあるので、これに依れば、武蔵の画は彩色は絶無だとも云いきれないことになろう。いつか榊原家から出たという武蔵の鷺《さぎ》の図にも、鷺の眸《ひとみ》にほんのわずかではあるが、藍《あい》の淡彩が点じてあったということも聞いている。  この時代に武蔵の画を始め、他の画家の作にも、また禅家の詩作などにも、達磨を書き、達磨を詠じた作が非常に多いが、その風潮については、私にも一考あるけれど、ここでは余り多岐にわたるから措《お》くことにしよう。  以上はただ、この画について、真偽の点を追ってみたに過ぎないけれど、私がほんとに知りたいのは、翁が今、不要意につぶやいたところの——武蔵と愚堂和尚との関係にある。  楽之軒氏のお説もあるし、自分はこれをまだ武蔵の真蹟として人に示そうとは思わない。ただ軽い自分だけの興味をもって、貧しい壁間に見ているだけだが、以上諸説を綜合して、ここにこの一画賛の成った機縁を一応認め、妙心寺の大宗愚堂国師と、一剣の道者武蔵とのあいだに、この合作を成す縁故があったものとしたら、尠《すくな》くも、二天記にも小倉碑文《こくらひぶん》にも、まったく欠除されている武蔵と禅門との交渉の一端が、おぼろにでもやや解けかけてくるのではないかと思う。  或は徒労かもしれないが、これをヒントにして、私はその後愚堂を中心として、妙心寺と細川家との長い関係や、また、細川藩の藩老長岡佐渡と妙心寺、及び沢庵と愚堂、熊本の細川家菩提寺の泰勝寺と春山和尚、春山と武蔵、春山とその師大淵——大淵和尚と引いて妙心寺や愚堂との入りくんだ関係にまで、物好きな詮索《せんさく》に時折手をつけ出したが、それは到底、簡略には書ききれないものである。いつか折があったら、そんな方面からも、武蔵と禅林との交渉の謎を、もう少し闡明《せんめい》してみたいと思っている。 [#改ページ] [#2段階大きい文字] 武者修行について   ——その風潮の興りと生活  諸国を修行の床とし、旅を研磨《けんま》の道とする——遊歴の方法は、ひとり武道家が武者修行としてしたばかりでなく、学問を求める学術の志望者にも行われ、僧門の、わけて禅家では、古くから行道の本則としていた程であり、また、技能美術を研《みが》く者のあいだにも、かつては唯一の修行法とされていたのである。  士道に対して、百姓道を唱《とな》えた、秋田の篤農家石川|理紀之助翁《りきのすけおう》などの事歴を見ると、百姓もまた、農法研究のために諸国の農工を百姓修行して歩いている。  そんなふうに広汎《こうはん》に観《み》たら限りもないが、要するに、武者修行と、武者修行的な人間の心的事業は、いつに始まって、いつに終るというものではない。  ただ時代に依って、それにも幾多の変遷《へんせん》はある。 「室町殿日記」に見られる十二代将軍義晴の天文十一年に、中国の武士|山内源五兵衛《やまのうちげんごべえ》という者が武者修行にあるいていた記載があり、また、十三代将軍|義輝《よしてる》の天文二十二年に、三好|長慶《ながよし》との合戦に際して、諸国から牢人や武者修行どもが馳せ加わって働いたという条《くだり》もある。  武者修行という文字はまだ用いられていないが、武士の中に、それらしい一色彩が書物に見え出しているのは、以上の二項あたりが、最も古いかと思う。  虚無僧寺史を見ると、それより以前、楠正勝《くすのきまさかつ》が、普化僧《ふけそう》の群れに入って、宗門を漂泊していたことなど誌《しる》してあるが、これは社会|韜晦《とうかい》で、武者修行ではなかったであろう。  総じて武者修行と呼ばれる者には、べつに一定の風俗|扮装《ふんそう》があるわけではなく、その目的が他日の武門生活の修行にあれば、虚無僧でも何でも、それを武者修行とよんで差閊《さしつか》えないわけであるが、やがて、それが社会の表面に、殆ど流行的な勢いで数を増して来、武者修行という称呼が生じて来た頃には、自ら、いわゆる一見して、 「てまえは諸国修行の兵法者である」  と名乗らないでも知れるような、独自な特徴を持った一つの風俗が生れて来たであろうことは想像に難くない。  足利将軍の十代|義稙《よしたね》の明応何年かに、日置弾正《へきだんじよう》という弓の名手が、修行のため、諸国を遍歴している。これは弓道家の武者修行として、文字に見えている最古の記事である。「足利季世記《あしかがきせいき》」の記載で、よく武道史の引証になっているが、日置弾正のそれは、自身の修行を目的とするよりは、日置流の自己の工夫を、世に宣布するという方が目的の重要であったようである。  大勢の門下を連れ、厳しい弓具や物々しい騎馬旅装を引っ提げて、権門を叩いて、射芸の宣布に努めて諸国を歩いたとある。——しかしこういう旅行者も、やがて、後の流行時代には、総じて武者修行の名をもって呼ばれるようになった。  都新聞の学芸部長であった作家の上泉秀信《かみいずみひでのぶ》氏は、上泉伊勢守の後裔《こうえい》だと人から聞いていたので、或る時、 「何か武道に関する伊勢守の古い文献でも残っておりませんか」  と、お訊《たず》ねしたところ、田舎《いなか》の兄の家には、何かそれらしい物があったように思うが、自分は見たことがありませんとの話だった。  その伊勢守や、塚原土佐守(卜伝)などが現われた天文、永禄、元亀の戦国初期になると、もう武道は社会の一角面に確立し、それを奉ずる兵法者という専門家の地位も明らかに出来ていたようである。  鎌倉の僧|慈音《じおん》だの、その門から興ったといわれる中条流の中条兵庫助だの、念流の樋口家だの、また、剣法中興の人と伝えられている天真正伝神道流の飯篠長威斎《いいささちよういさい》などいう人々は、すべてその事蹟明らかでないが、卜伝、伊勢守などの興った天文、永禄よりはずっと以前、室町の中世期において、発祥の光鋩《こうぼう》を曳き、そして歿し去っている先人達であった。  卜伝、伊勢守などの名が、兵法家として、また、その道流を興して世上に認められていた弘治、永禄、元亀年間に亘る時代には、一方に松本備前守とか、富田勢源《とだせいげん》とか、北畠中納言|具教《とものり》とかいう上手も輩出していた。そして、宮本武蔵などはまだ生れてもいなかったし、伊藤弥五郎一刀斎なども、桶狭間《おけはざま》の合戦のあった永禄三年の年、伊豆で産声《うぶごえ》をあげていたので、武蔵はそれより遅るること、約二十二年後に生れているのである。  しかし、弓道では、前にいった日置流の日置弾正《へきだんじよう》、馬術では大坪流の大坪|道禅《どうぜん》なども、それより以前に輩出していた所などから見ると、とにかく一般の武道が、暗黒と頽廃《たいはい》と社会的混乱の続いた室町期の末にその萌芽《ほうが》を孕《はら》み、信長勢力の組織改変とその武力的統制の機運に乗じて、彼らも専門的に兵法者と称して現われ、その道を提唱しまた、宣揚し始めて来たことは、明らかに観ることができる。  こういう時代潮流の中で、武者修行は、その発生期を経、愈※[#二の字点、unicode303b]、殖《ふ》えて来たものと思われる。  上州|大胡《おおご》の城主だった上泉伊勢守は、川中島の合戦の永禄四年の翌年、その城地を去って、兵法修行を名として遊歴の途に上っている。 「看聞御記」には、伊勢守上洛の記事や、また、伊勢守が禁庭に召されて、その剣技をもって、正親町《おおぎまち》天皇の天覧の栄に浴したことなどを屡※[#二の字点、unicode303b]記載してある。その道中には、一族の郎党と弓馬を率《ひ》き具《ぐ》し、諸国遊歴とはいうものの、堂々たる武者行列で往来したものらしかった。  塚原土佐守(卜伝)にしても、東海道を上下する折は、いつも六十人ぐらいな従者門人をひき連れ、先供の者には拳《こぶし》に鷹を据えさせ、乗換馬二頭を率《ひ》かせて歩いたとあるから、その行装に威容を心した有様はほぼ想像がつこう。  こう二人も、勿論、諸国廻歴と称し、当時の武者修行者のうちに加わるものではあるが、その生活や風俗は、決して、後に考えられたような樹下石上の旅行でなかったことは確かである。  だが、前の両者とか、伊勢の北畠具教とか、大和の柳生家とかいう兵法家は、やはり当時でも、少数な宗家的な存在であって、一般の武者修行といえば、型の如く、一剣一笠で樹下石上を行とし、克己を主旨として、諸国を踏破するのが、本来であったにちがいない。  林崎《はやしざき》夢想流という抜刀(居合)の流祖林崎甚助重信などは、やはり天文、永禄の時代を、その郷土出羽国を出て、諸州を歩いているが、彼の武者修行ぶりなどは、典型的な孤行独歩だった。  彼が京都の民家に一泊した時、茨組《いばらぐみ》とよぶ当時の暴徒の一団が強盗に押入り、それを迎えてことごとく斬り伏せたという話が、林崎流の流祖伝として伝えられている。  茨組という暴民のことは「室町殿日記」にも見え、 [#ここから2字下げ] ——その装束《さうぞく》は、赤裸に茜染《あかねぞめ》の下帯、小玉打の上帯を幾重にもまはしてしかとしめ、三尺八寸の朱鞘《しゆざや》の刀、柄《つか》は一尺八寸に巻かせ、鐺《こじり》は白銀にて八寸ばかりそぎにはかせ、べつに一尺八寸の打刀《うちがたな》をも同じ拵にて、髪は掴み乱して荒縄にてむづとしめ、黒革《くろかは》の脚絆《きやはん》をし、同行常に二十人ばかり、熊手、鉞《まさかり》などを担がせて固め、人々ゆきあふ時は、 「あれこそ聞ゆる茨組ぞ。辺りへよるな、物いふな」 と怯《お》ぢ恐れてのみ通しける。 [#ここで字下げ終わり]  といったような不逞の団体であったらしい。  林崎甚助は、後に、上杉謙信の幕下松田|尾張《おわり》の手に属して、戦場へも出ているが、その武者修行に出た動機には、修行という本質のほかに、亡父の仇敵|坂上典膳《さかがみてんぜん》を打つという目的があった。  ようやく、武者修行の風が興ると共に、武者修行を名として、仇討、隠密、逃避、その他いろいろな内情をも秘して歩く者が混入して来る傾向にあったことも争われない事実であった。  そしてそれらの雑多な者と、純粋なる求道的廻国者とは、殆ど見分けもつかず、一様に武者修行の名をもって、戦国期から江戸初期にかけては、諸国の都会をまた山村を、流寓して歩いている武士がずいぶんとあったものに思われる。  明智光秀は、信長に仕えるまでの壮年期を、武者修行して送ったと、どの伝記にも書いてあるが、さてどうだろうか。  山本勘助の伝にも、同様な履歴が見える。  こういう人たちの武者修行が、どんなものだったか、知る手がかりもない。勘助や光秀などは、後に、各※[#二の字点、unicode303b]一箇の謀将として立身しているので、その青年期の不明な頃は、諸国の築城兵力地理などを考察して、他日に備えたものであろうという、後人の臆測が、多分に、伝記の余白を埋めているのではあるまいか。  光秀の漂泊時代について少し考察してみると、彼の漂泊は二十八歳の弘治元年から始まっている。その年、美濃の斎藤氏の一族の乱で、恵那《えな》の明智城を墜《おと》され、それまで、身を寄せていた叔父の子、明智光春と一緒に、山越えして越前へ落ちのびて行ったのである。  その以後、若狭《わかさ》の武田家に潜《ひそ》んでいたり、また、三十五歳の時には、一時、朝倉義景にも仕えていた。そして三十九歳の時、初めて朝倉家で細川藤孝(幽斎)と識《し》り、四十一歳の時、初めて織田信長に会ってそれに仕えることになったのである。  こう見て来ると、二十八歳の離郷は、城地の滅亡が動機で、それからの十三年間の期間も、多くは大身の門に身を寄せ、また後半は仕官をしていて、その地域も限られているし、武者修行というような目的で、諸州を歩いたらしい足跡はない。勿論、その浪々中困窮はしたろうが、それが直ちに武者修行をして歩いたとはいえない。  むしろその点では、彼の旧主である斎藤道三《さいとうどうさん》のほうが、つぶさに実践していたかもしれない。道三については、こういう事蹟がある。これは彼の伝記の記載でなく、蜂須賀家の藩史、蜂須賀|蓬庵《ほうあん》伝のほうに見えるものであるから、かえって正確と思われるのである。 [#ここから2字下げ] ——中村能祐、龍空禅師《りゆうくうぜんじ》に勧めて曰く、家名を絶つは不孝の大なるものなり、子孫の為、図《はか》るところあるべしと。禅師これに従ひ、蓄髪して、宅を蜂須賀|邑《むら》に構へ、足利氏を改めて、浜といひ、小六|正昭《まさあき》と称し、後蜂須賀氏に改む。(略)——是より子孫蜂須賀氏を襲ふて、累世《るゐせい》氏名となしぬ。  時に、松波荘九郎《まつなみさうくらう》といふ者、武者修行として、稀※[#二の字点、unicode303b]、蜂須賀邑に到、日暮れ宿を求むるも応ずるものなし、小六正和、その居宅の檐下《のきした》に躊躇《ちうちよ》せるを怪しみて故を問ひ、艱難相救ふは、武士の常情なり、宜しくわが家に留るべしとして、懇切に迎へ入れしかば、松波喜びて、他日必ず恩を報ずべしとて、印符《いんぷ》を分ちて去りぬ。即ち、後の斎藤山城守|秀龍《ひでたつ》なり。この旧縁により、正和、後秀龍に属し、蜂須賀領二百貫を領す。 [#ここで字下げ終わり]  この小六|正和《まさかず》というのは、矢矧《やはぎ》の橋で少年秀吉の面だましいを見て拾って行ったという伝説のある、あの小六正勝の父にあたる人物であるが、道三秀龍が、蜂須賀|邑《むら》の一郷士の軒下に、途方に暮れて屈《かが》んでいたというはなしの方は、矢矧の橋の日吉丸のことほど伝わっていないが、それよりは事実性は多い。  僧になったり、油売りしたり、実世間の流浪をいろいろな職業にわたって通って来た道三秀龍だけに、後の斎藤家と蜂須賀氏との関係を考えても、そんなことも、或はあったろうかと思われるはなしである。  しかし以上の戦国の武将たちの経歴として、一部にいわれている武者修行も、また、上泉伊勢守や卜伝のそれも、なお、仇討とか隠密とか別箇な目的をもって歩いたそれも、純粋な意味では真の武者修行ではない。姿を借りてその群れの中に伍していたか、或は時流が一様にそれらの人をもくるめて、武者修行と称《よ》んだだけに過ぎない。  武者修行には、やはり武者修行精神がなければならない。克己と求道のやむにやまれないものが、安住を捨てて、進んで艱難につくところに、その純粋な目的があった筈である。  禅門の雲水のように。  また当然な求道精神の昂《たか》まる意志の前に。  すでに足利末期の暗黒混濁な世相の底流には、その頽廃期に躍る人間とは正反対に、時流の息ぐるしさや腐敗から離脱して、甦《よみがえ》ろうとする新生な思想が、武士の中には芽をふいていた。  それは、武士訓の発生としてあらわれている。武士訓には、一族の主たる者が、その子弟のために書き与えたもの、或は一般の武士社会へ呼びかけたものなど、幾多があるが、その真意には、余りに腐《す》えた現状生活に対しての自省と、憂いと、甦生《こうせい》の精神から出ていることは一つである。  武士訓とは、いうまでもなく武士道徳の誡語《かいご》である。武士のたしなみ、武士のなすまじきこと、武士の勤むべきことなど、総じてこれから武門の中堅たろうとする若輩に訓《おし》えたものである。  その骨子は、鎌倉武士道の復古だった。また、そのうちには、後期の江戸武士道——山鹿素行の「士道」だの、山本|常朝《つねとも》の「葉隠」などに研磨されて行った武士道根柢精神も、まだ精錬されない地金のままではあったが、既に当時の武士訓のうちに、ことば書きとなって現われていた。  その古いものでは、楠公壁書だの、管領の斯波義将《しばよしまさ》の竹馬抄《ちくばしよう》だの、今川|了俊《りようしゆん》の今川状などというものがあり、また、戦国期にかかっては、北条|早雲《そううん》のことばという、早雲寺殿《そううんじどの》二十一ヵ条、武田家の信玄家法、長曾我部元親式目《ちようそかべもとちかしきもく》とか、黒田長政|遺言《いげん》とかがある。  その中でも、大内|義隆《よしたか》の大内家壁書とか、細川幽斎の幽斎覚え書だの、細川|頼之《よりゆき》の武士訓などは、特に有名であり、家臣から世上に伝写されて、時人の座右の銘とされ、また人口に膾炙《かいしや》して行った。  宮本武蔵の独行道十九ヵ条なども、彼の書いた武士訓の一つといえる。  武士訓は、大名や権門の人が、子弟や臣下に示すために書いたばかりでなく、武蔵のような一武人でも、名なき人々でも、自己の自誡《じかい》に、また、社会人への示唆《しさ》として熾《さかん》に書いたものである。  同時に、道歌が興った。  細川幽斎などの作は非常に多い。  武蔵にもある。兵法家はまた、兵法の極意、言外の深意を伝えるに、よく歌をもってしたものである。 [#ここから2字下げ] 斬《きり》むすぶ太刀の先こそ地獄なれ たんだ踏《ふみ》こめ先は極楽《ごくらく》 [#ここで字下げ終わり]  一例である。これは武蔵の作といわれているが、武蔵の作歌ではあるまい。柳生石舟斎の伝書の歌ともいわれている。  正しく武蔵の作歌と思われる歌には、 [#ここから2字下げ] 乾坤《けんこん》をそのまゝ庭とみるならば われは天地の外にこそ住め [#ここで字下げ終わり]  がある。 [#ここから2字下げ] いづこにも心とまらば棲《す》みかへよ 長《なが》らへばまた本の古郷《ふるさと》 [#ここで字下げ終わり] は、上泉伊勢守の陰流《かげりゆう》の秘歌として伝わっている。  それらの剣道の極意歌なるものは、輯《あつ》めれば一集になるほど各人各家にある。自分が好きなのは、柳生十兵衛の詠んだ [#ここから2字下げ] なか/\に人里ちかくなりにけり あまりに山の奥をたづねて [#ここで字下げ終わり]  である。剣法の示唆より、幾分か十兵衛の心懐を歌ったに近いが、含味《がんみ》してゆかしい趣のふかい歌だと思う。  余談にわたったが——  細川幽斎の武士道いろは歌だの、当時の武士訓や壁書など見ても、社会混乱と頽廃《たいはい》のなかに、いかに人心は——わけて武士階級の一面には、道義精神を呼び甦《か》えそうとしていたか、また、心ある者が、そうした時流の中にある程、自己自誡し、自己を濁流から救って、独り磨いて行こうとしたか、分ると思う。  その一端が、禅門に走り、または武者修行となって、ひたむきに、道を求めていたであろうことも考えられる。  そういう人のなかには、純粋な武者修行精神が抱かれていたろう。武蔵の如きは、真に、その一人だったと云い得る。  武者修行の世界ばかりでなく、純粋を求めるならば、その数は、その流行相と反比例して、極めて少ないのは当然である。  伊藤一刀斎、丸目|蔵人《くらんど》、柳生|兵庫《ひようご》、小野典膳、諸岡一羽《もろおかいちう》その他、多くの剣客たちでも、等しく武者修行はしたろうが、各※[#二の字点、unicode303b]、意図する所があり、純粋な剣道修行であったかどうかは疑わしい。  柳生兵庫などはべつだが、そのほとんどが流浪の牢人であったから、先ずよき主を探して、仕官に就くという目的が誰にも一応はあったであろうと思われる。武蔵にも勿論、彼の理想も註文もあったが、その気持があったことには変りがない。  応仁の乱以後、その牢人の数は、夥《おびただ》しく殖《ふ》えていたし、また、戦国期になっての風雲は、山野の青年をその郷土から活動の巷《ちまた》へ、ずいぶんと呼び出したであろう。  興亡の激しい豪族間の遺族や郎党たちも、踵《きびす》を追って牢人の群れに落ち、そして牢人の境界から浮び出るべく、諸国を歩いた。  それらも武者修行者の流れの中に、多分に交じっていた。  武者修行者の殖えたもう一つの理由としては、そこに自然、生活方法が開けて来たことにもよるであろう。いったい、当時のそうした遊歴者が、どうして生活の資を得ていたかという、経済面の点を、現代人はよく不審とするが、戦国時代などにあっては、その生活の自由性からも、また、四囲の社会状態からも、衣食においては、さして困難はなかったろうと考えられる。  塚原、上泉といったような豪族は、たとえ城地を去っても、なお、多くの家僕や門下を従えて往来していた程だから、これは問題ではない。  問題は、短くも数年、長きは十年も二十年も、一定の住居も持たないで、廻国と武芸に精進している沢山な孤行の剣人たちである。  が、それにも、主君の命を帯びて、表面は牢人し、敵国の地理兵力の状態を探っているのもあるし、また特殊な使命をおびて歩いている者などには、それぞれ資力が背後にあるから、これも問題ではない。  まったく、何の背景もない、当時の武者修行にとって、唯一の生活方法は、やはり他人の合力と、指南の報酬が唯一だったに違いない。  戦国期の中層民以下の社会では、彼らがそうして生活して歩くには、最もいい状態だったことは事実であろう。  まず、武者修行たちにとっては、寺院が開放されていた。武士と寺院との密接な関係、また、武者修行の心的修養に、打ってつけた場所として、寺院はいつでも彼らの一泊の乞いは容れてくれたろう。  それから、足利中期以後の物騒な世態の反動として、庶民のなかに、百姓にいたるまでが武術を愛した。領主の統治が行亘《ゆきわた》らず、茨組《いばらぐみ》のような暴徒や、匪賊《ひぞく》のような野武士の襲来に備えて、何の警察力もない民は、それが僻地の村落であればあるほど、彼ら自身が武力を持たなければ、安心して業にもついていられなかったであろう。  また、個人間のあいだにも、殺伐な風や、詐謀《さぼう》や、油断も隙《すき》もならない道義の頽廃があった時代では、その各※[#二の字点、unicode303b]も、何よりは武技を身に備えておくことが、役だつに違いない。  信長か、秀吉だったか、制令を出して農家が武器を蓄蔵することを禁じ、各村落から押収したところ、驚くべき大量な刀槍が発見されたという例など見ても、当時の社会不安が窺《うかが》えよう。  武者修行者の往来は、そんな時代の村落では、むしろ自分らの防衛者として、歓待して迎えた。山賊の話、人身御供の伝説などは、僻地の村民と武者修行との生活関係にも、一つの示唆をもっている。  宿泊や衣食は、そういう地方でも、彼らは困らなかった。また武技の教えを乞う者は、百姓町人のあいだにもあった。  仮にそういう便宜のない都会地でも、武芸者同士の相互扶助的な方法もあったろうし、また、手蔓《てづる》から手蔓をもって歩けば、然るべき武家の門でも応分の好意は示したであろう。  武蔵の青年期から壮年時代などにあっては、殊に武者修行の多かった時勢でもあり、また、それらの生活しよかった頃ではないかと思われる。  関ケ原前後、また、大坂夏冬の陣の前後には、どこの大名も、いつ合戦が起るか、いつ陣務を急とするか知れなかった中に、表面は幾年かの小康的《しようこうてき》平和にあった時勢だった。  当然、全国の大名は、朝夕に武備を怠らなかった。しかし、限りある財力で限りない兵は養えないし、殊に、実力と人品の双備な人物と見ても、戦後の長い経営を思うと、目前の必要を感じても、そうそうは召抱えられなかった状態であった。  で、自然、捨て扶持、隠し扶持というものを、牢人に与えていた。いわゆるこうと思う人間には、平常に息をかけておくのである。九度山《くどやま》の真田幸村などは、その尤《ゆう》なるものであろう。幸村へは平時においても、大坂城の秀頼から、尠《すくな》からぬ金力が密かに送られていたという。しかし、幸村自身は伝心月叟《でんしんげつそう》と世捨人《よすてびと》めかして、草庵に質素な生活をしていたし、そんな莫大な金を費《つか》う途はない。  それが関東大坂の開戦となって、彼が廬《ろ》を出る日となると、幸村父子が高野の麓《ふもと》から紀泉を通って、大坂へ入城するまでの間に、途々《みちみち》、忽ち人数に加わる牢人者が四方から馳《は》せ参じ、無慮二千余の手兵になっていたといわれている。  そういう牢人の生活費は、すべて幸村の手を通して、大坂城の経済から出ていたことはいうまでもないが、こういう一朝の場合に備えて心がけておく牢人扶養の仕方は、諸国の大名も皆やっていたこと勿論である。  で、多少なり、一《ひと》かどといわれる武者修行は、何らかの形で、その系統のどっちかに扶助されていたろうと思う。  武蔵も三十一歳の時、大坂陣の折には西軍に参加したといわれ、その所属や功績の程は明らかでないが、西軍に投じたには、何か一片の義心なり理由がそこにはあったものと想像される。  いずれにしろ、武者修行の生活は室町期の初期にあっては、禅僧の行脚《あんぎや》に倣《なら》ったような所もあろうし、そしてもっと乱脈な、雑多な、無秩序に行われていたろうが、戦国期に入って、元和の頃までは以上のようにその生活に一つの軌道があり、また、活溌な意志をも持った。けれどやがて江戸時代にはいって、世間が平静になり、統治者の制度が緊密になってくると、武者修行者の生活は、次第に難しくなってきたようである。  また、多くの偽装浮浪者に対して、法令もやかましくなったため、正しい目的をもって廻国する者までが、いろいろ牽制《けんせい》されて来た。しかし、ずっと後の千葉周作の廻国日記など見ても、まだまだ江戸末期までも、武者修行の数は非常に多かったものらしく、幕末頃にはまた、その人たちの生活も、もっと合理的な社交性すらもって、相変らずそう不自由なく、諸国を歩けたものらしかった。  それはちょうど、現在の社会でも、舌一枚で地方講演に廻るとか、講習会をしたり、或は画家が画筆をもって旅行しても決して、飢えることがないのと相似て遠くないものであった。  柳生家と将軍家との如く、或は他の藩主とその臣下の剣道家といったような、密接な関係のある者で、主命として廻国に出た者も決して尠くない。  柳生旅日記で聞えている十兵衛|三厳《みつとし》は、寛永三年の十月、二十歳の時、家光の御前を退いて即座に髻《もとどり》を断《き》り、狂を装って旅へ立去ったまま十一年間——三十一歳まで諸国を経巡《へめぐ》って帰らなかったということである。  かれの自筆本、月之抄《つきのしよう》は、現在奈良県|添上郡《そえかみぐん》の柳生寺に、今も所蔵されているが、その別本「新蔭月見伝序《しんかげつきみのでんじよ》」を見ると、 [#ここから2字下げ] 寛永三年十月、さる事ありて [#ここで字下げ終わり]  という書き出しで [#ここから2字下げ] 君の御前を退て和ならず山に分け入りぬれば、自ら世をのがると人はいふめれど、物うき山のすまひ柴《しば》の庵《いほり》の風のみあれて、かけひならでは露|訪《おと》なふものもなし……(中略) [#ここで字下げ終わり]  と、生活の様を叙して、序文の末章には、 [#ここから2字下げ] ——然れども又、かくの如く、われにひとしくあらん敵には、勝負いかんとも心得がたし。さるによりて思ふ事、至極をこゝに一々述、老父に捧げ奉れば老父の云。これら残らず行捨てたらんにしくはあらじとや。(中略)そのにごりなき心を自由に用ふる事いかに。時に沢庵大和尚へなげきたてまつり一則のこうあん(公案)お示しをうけ一心伝道たらずといへども、かたじけなくもおん筆をくはへられ、父がいしんてんしん(以心伝心)の秘術事理一体本分の慈味こと/″\くつきたり [#ここから5字下げ] たづね行《ゆく》 道のあるじや よるの杖 つくにぞいらね 月のいづれば [#ここから2字下げ] よつて此書を月之抄とは名づくる也 [#ここで字下げ終わり]  と書いている。十兵衛が出奔を、脚色した柳生旅日記は、元より作為であるが、将軍家の命をうけて、隠密として廻国に出たのだという説は、かなり真実そうに彼の伝や剣書にも書いてある。  しかし、この月之抄の序文を見ると、まったく山中に入って苦行独歩の修行をしていたのが事実らしい。  十兵衛はいったい非常に剛毅な気性で、幼少から片目がつぶれてたし、弟の飛騨守宗冬などより、気性もすぐれ剣も鋭かったらしいが、月之抄の序文でもわかるように文章を書くと典雅だし、その筆蹟なども優麗で見事である。宗矩の息子たちの中では、やはり十兵衛がいちばん人物だったように想像される。  隠密という特務に依って動いた者としては、むしろ柳生兵庫などの方が、その疑いが濃厚ではあるまいか。  兵庫|利厳《としよし》は但馬守|宗矩《むねのり》の父、石舟斎の孫にあたっている。十兵衛とは従兄弟《いとこ》である。  二十五の時肥後の加藤家から懇望されて、禄高五千石で抱《かか》えられて行ったという人物である。  その折、祖父の石舟斎が、加藤清正に、 [#ここから2字下げ] 「兵庫儀は、殊のほか、短慮者でござれば、いかような落度《おちど》があろうとも、死罪三度までは、おゆるしありたい」 [#ここで字下げ終わり]  と、頼んで約束したという。  だが、任地へ赴いてから、幾年も経たず、兵庫は加藤家を去っている。そして九年間、そのまま廻国を続けて、後に名古屋の徳川家に落着き、尾張柳生の祖となっている。  時勢が時勢だし、祖父の条件だの、清正の寛度などもあるのに、軽々に任地を去って、廻国していたなど、ただのわがままとも考えられない。すでにその頃、柳生石舟斎は子の宗矩をひいて、家康にも会い、将来の約言も得ていたから、少し穿《うが》ちすぎるが、兵庫が肥後藩を往来したのも何か裏面的な理由がそこにあったと考えられないこともない。 [#改ページ] [#2段階大きい文字] 各家の武蔵論  新聞小説論がやかましい。外国電報と時代小説は読みそうもない人達だけの声だから、他山の風として措《お》いてもよいが、そんな中に何も選りに選って、夕刊小説に宮本武蔵などは書くものじゃない。  案のじょうさっそく、予告を見たが十回も載らないうちに、そら講談だとおいでなすった。中村武羅夫《なかむらむらお》、岡田三郎、みんな御年配の方がそう仰っしゃるのだ。これは一般の常識だから抗議は一切いわない。  なるほど、延享三年版の戯作本《げさくぼん》に、花筏巌流島《はないかだがんりゆうじま》というのが出ている。なかなか趣向は愉快に組んであって、佐々木巌流が吉岡の娘に惚れ、吉岡を殺して逃げる、武蔵は吉岡の子で、肥後の加藤家に流浪して来て、宮本武右衛門という者の養子になり、実親の仇を討って、巌流島の仇討というものを天下にとどろかせるという筋。  花筏の作者は、八文字屋自笑《はちもんじやじしよう》という男で、姫路宿屋の段とか、神変杉狒々退治《しんぺんすぎひひたいじ》の段とかいうように、仮名手本式に十三段にわけて、大喜利《おおぎり》を巌流島敵討の段でむすんであるが、文化七年にまた、佐川|藤太《とうた》という者が補筆して上梓《じようし》しているし、この他にも、享和三年に平賀梅雪著の二島英雄記という十巻ものの院本が出版されている。  ここあたりの物が、講談の宮本武勇伝の出所らしい。僕らが幼少に見た演劇も、前述の花筏の段で演じていたことを覚えている、俗に大阪本といって貸本屋にかつがれていた岩見重太郎、丸目|蔵人《くらんど》、塚原卜伝などの武勇伝物というのも、筋はみな大同小異、娘を助ける、狒々が出る、敵を討つ、御前試合をやる。  しかしこれがなかなか馬鹿にできない読者を持った時代があるとみえ、現在でも宮本武蔵はすでに夙《と》く有名だが、一般民衆の中に持たれて来た宮本武蔵は、前にいった花筏の脚色と大阪本講談の脚色を一歩も出ないものであった。従って、一般民衆の概念からいえば、宮本武蔵も岩見重太郎も変るところのない同一人物なのだ。塚原卜伝も荒木又右衛門も同じ時代の人間に考えられ、服装、習俗、またその社会は、漠然と江戸中期になっていて、過去の民衆の好みどおり、男が美しくて、強くて、颯爽としていて、鎖《くさり》帷子《かたびら》に黒羽二重《くろはぶたえ》、切下げ髪という拵《こしら》えに出来あがっている。  しかし、こういう概念で武蔵を考えていたのは、決して低い民衆ばかりでなく、かなり知識的な人間でもまた、作家といわれる者にさえ、そういったこと以外、武蔵については知らないし、知っていても漠然と、俗説真説の両方ともあいまいに混同していた人は尠《すくな》くないようである。  そんな手合が、そら講談だとか、史実がどうとか、お先走って、活字の唾《つば》を飛ばしてくるのだから、こっちもちょっと返答のしようがない。  東西朝日の夕刊面に、宮本武蔵を書いてから、毀誉褒貶《きよほうへん》、叱言《こごと》の投書もずいぶん打《ぶ》つけられるが、実際の仕事に当ってから僕も意外に感じたのは、一方にそういう概念の民衆があるかと思うと、また一面には、熾烈《しれつ》な宮本武蔵研究家と、武蔵の独行道や五輪書をとおして、彼への崇拝者の実に多いことであった。このほうの人々は、勿論、史実や遺墨を辿《たど》って、かなり真実に近いはずの古人を把握《はあく》していて、武蔵への景慕は、研究というよりはむしろ信仰的でさえある。  武蔵の研究とか景仰とかいうものは、近年の日本主義風潮の副産物ではない。楠正成は五百年祭に、弘法、法然は一昨年あたりからの宗教流行に、二宮尊徳は浜口内閣以後に、それぞれ傾向的な色彩で再検討にかけられたが、宮本武蔵はジャアナリストの必要では呼び出された例がない。ただ四年ほど前に直木三十五が、武勇伝雑話、上泉信綱と宮本武蔵、武蔵の強さ、等において武蔵非名人説を書いたり座談したりして、しきりと論敵を誘いかけたぐらいなものである。  だが、武蔵の真面目を窺《うかが》って、彼への研究や崇拝を寄せていた者は、江戸時代からかなり多くの人士にあったのじゃないかと思う。剣道家の著書には必ず彼の遺文や兵法が論評にのぼるし、荻昌国《おぎまさくに》の武蔵伝には、平山子龍《ひらやましりゆう》が共鳴のことばを書いているし、また武蔵が画も描いたので、渡辺崋山も田能村竹田も、武蔵の画論を書いている。  大川周明、安岡|正篤《まさひろ》などが、宮本武蔵研究を発表していたのは、震災前だし、その以前に井芹経平《いぜりきようへい》も武蔵会雑誌に書き、熊本には宮本武蔵|顕彰会《けんしようかい》が古くからあり、僕は見ないが、碧瑠璃園《へきるりえん》も武蔵を書いているというし、遺墨集も刊行されているし、近年だけの武蔵に関する著述だけでも枚挙《まいきよ》に遑《いとま》がないといっていい。  それでいて、一般人の抱いている武蔵の空想像は、依然として、院本式な姿をすこしも毀《こわ》して来ないのだから、およそ民衆の先入主というものが如何に頑固で強情なものであるかがわかる。  そういう強情なお客様の先入観へ向って、まるで懸けちがった武蔵を書いて出すことは、危険であり、夕刊小説として、損でもある。そうかといって講談本式な武蔵なら今さら書く必要もないし、またあれ以上うまくする自信は僕にない。  結局、今日の新聞小説に、宮本武蔵を書くとなれば、誰が書いたって、花筏《はないかだ》や大阪本の武勇伝物に拠《よ》る奴はあるまいし、そうかといって、純学究的な所説や信仰にだけ齧《かじ》りついてもいられまい。しかし、それでは手も足も出ないことになるから、勿論、今日の大衆文学としては、一応後者に拠って史実を討究して書く。  尠くも在来の似ても似つかない武蔵の概念像を毀《こわ》して、やや真貌に近いものを書こうとするのでなければ意義はないのだ。僕らの創作昂奮はないのだ。それに当然附帯する文学的意図とか、それ以前の前提となる新聞小説使命への情熱はまたべつとしても、とにかく能う限り史実に接して考究してみることが、当然な作家態度であろう。  そこで今、武蔵に関する参考書を並べてみるとなると、熊本の顕彰会本を始め、近刊では直木全集の一部、中里|介山居士《かいざんこじ》の武術神妙記、史林その他の雑誌に掲載の断片、古事類苑《こじるいえん》の兵事部、国書刊行会本の武術叢書、井芹経平講話筆記など、机の高さにして三側ぐらいはすぐ積まれる。なお労をいとわなければ、碧瑠璃園のもあるそうだし、幸田露伴の古い日本百将伝かのうちでも一読したことがある。なお日本精神と剣道方面までの論評を蒐《あつ》めれば、積んで山をなすといっても過大でない。  それから、明治以前に版になっているもので、伝記としての参照の価値のない戯作本を省《はぶ》いても、武蔵に関する記事のある書は伝写本を入れると四、五十種ぐらいすぐ数えられる。そのうち最も信の措《お》けるものは、何といっても二天記であろう。  二天記というのは、後につけた書名で、最初は、書写しの反古綴に、筆記者がただ武蔵の武の字を冠して「武公伝」としておいたものだという。この書は、武蔵が晩年の骨を埋めた肥後の細川藩の士豊田又四郎が、武蔵の直話だとか、死後に整理した文書とか、門人の話などを抄篇したものだということになっているが、武蔵の死は正保二年であり、筆記者、豊田又四郎はそれから、百三年後の寛延元年に歿している人だから、おそらく嘘で、しかも又四郎の子彦兵衛、その子左近右衛門、三代の手を経て編纂《へんさん》されたものというから、愈※[#二の字点、unicode303b]、武蔵の直話などでないことは明らかで、ただ藩の人々に彼の父祖の話として伝えられたものが、武蔵の死後百年以上たってから、抄録の文書と共に著《あら》わされたものに違いなかろう。  それでも、武蔵伝のまとまった物としては、これが最古のものである。二天記はまた他家へも盛んに伝写されたとみえ、小倉本、異本二天記などという別本もある。小倉には、武蔵の養子宮本伊織が家老をしていたので、宮本玄信伝が写本で伝えられたし、宮本氏系図があるし、なお史料として重要な武蔵の碑文がある。  文献としての古さだけからいえば、この碑文がいちばん武蔵の生前に近いのである。武蔵が死んで九年目に、養子であり小倉藩の家老であった宮本伊織が自身で建てたものであるから。——ところがこの碑文にさえ間違いや錯誤があって、僕らの採《と》る文献価値は甚だ乏しい。  武蔵の二天流の剣道をうけ継いだという吉田|実連《さねつら》の実話を、丹治峯均《たんじほうきん》が書いた、兵法大祖武州玄信公伝というのは、前の二天記とほぼ同時代に流布《るふ》されたもので直木が引例に、丹治峯均筆記といっているのはこの書のことだ。  幕末の横井小楠が一読して、 「武蔵を伝して、先人未発の識見」  と賞めたのは、荻昌国の武蔵伝である。これは伝というよりは論評であって、武蔵の志業と人格に重点を措き、小楠の言のとおり二天記や墓碑よりもずっと彼の人間へ迫っている。荻昌国は角兵衛といって、やはり熊本の藩士である。  林羅山《はやしらざん》や平山子龍なども、断片的な論賛《ろんさん》逸事などを誌しているが、彼の生涯を補足する足しになるほどな文字はない。むしろ、地誌的な方面から漁《あさ》ると、美作《みまさか》略史《りやくし》とか、新免家伝覚書とか、東作誌とか、作陽誌などの類に、瓦石《がせき》まちまちながら彼の幼少時の境遇と系図書式でない戸籍面の煤《すす》がやや洗われてくるのである。  そのほかには何といっても、兵法書にはいちばん記載が多いのであるが、逸話をのぞいては五輪書や、三十五条などの遺文の採録と註解から出たものはない。あとは彼の余技に関するもの——肥後金工録《ひごきんこうろく》に名があるぐらいな点か、また、画乗要略《がじようようりやく》その他に、彼の画系がぼつぼつ載《の》っている程度である。  だいたい以上の範囲にわたって、僕らには直接見る機縁のない、彼の書簡とか余技の装剣画幅の類とかをのぞいて、それらの書は古版から活版までをくるめると、約七、八十種には及ぶであろう。いやもっとになるかも知れない。だが、もしそれらの全部を克明に隅から隅まで読む者があったら、いくら忠実な武蔵研究者であっても馬鹿である。  直木が、改造や文藝春秋に数回にわたって書いている「武蔵非名人説」のうちだけでも、ここに僕の挙げてない書名はたくさん引用されてある。上泉信綱を論じている段に「言継卿記《ときつぐきようき》」の日記を引いてあるなどの点は、直木もあれを書くには、相当、武蔵研究者の反駁を予期して、みっしり調べて書いたものと思われる。  けれど仮令《たとえ》該博《がいはく》なる直木三十五の手に触れた書から、以上の参考書をのこらずひっくるめて見ても、そのうちからこれこそほんとの史実だと信用できる武蔵の記録というものは、これはまたいくらもないのだ。一小冊子の半分だけでもあれば大したものだが、そんなにはとてもない。ではどのくらいというと、およそ要約して、この活字の一段組みで六、七十行ぐらいに尽きている、その程度が宮本武蔵の史実だといってよい。 [#改ページ] [#2段階大きい文字] 少年時代と家庭  工匠でも画家でも剣人のでも、どうも名人逸話には類型と伝説が多い。武蔵にも十三歳で有馬喜兵衛という剣豪を殪《たお》したという話から始まって、晩年六十歳頃までの逸事は相当に残っていることはいる。そのうち、細川家へ落着いてからの逸話は、やや根拠があるが、それとて藩士の口から口へ伝わってずっと後年に記述されたものであるから、そういう事がらと履歴は認めても、果たしてどの程度まで武蔵の心事と行動が掬《く》み取れるかは難しいと思う。  十三歳で有馬喜兵衛を殪したという話も、武芸小伝によると、喜兵衛は、当時の剣道の大家松本備前守の刀系をひいている有馬豊前守の一族の者で、その豊前守は徳川家康の命で紀州家へ移ったという人物である、そういう一族の者で、しかも天真正伝《てんしんしようでん》の神道流をうけていたという有馬喜兵衛が、いくら何でも、子どもと喧嘩はすまい。  武蔵の生れた郷里、作州吉野郡|讃甘《さぬも》村大字宮本という村に、有馬喜兵衛なるものが矢来を組み、金箔《きんぱく》の高札《こうさつ》を立てて試合の者を求めたというのである。武蔵、幼名は弁之助といい、寺小屋がよいの帰途、その高札へ墨を塗ったので喜兵衛が怒った、武蔵の知る辺《べ》の僧侶が聞いて駈けつけ、彼に代って詫びたが喜兵衛はきかない、そこで刀を把《と》ってかかると、却って十三歳の弁之助に打ち殺されたということになっている。  これは武蔵自身が、晩年に著述した五輪書の序文にも正しく、 [#ここから2字下げ] ——われ若年のむかしより兵法の道に心をかけ、十三にして初めて勝負をなす、その相手新当流の有馬喜兵衛 [#ここで字下げ終わり]  と簡単に書いてあるが、事実がこの口碑のままかどうか。  有馬喜兵衛ともある士が、小児の悪戯《いたずら》ぐらいに赫怒《かくど》して、これとムキになって闘ったとなると、こいつは兵法家として成っていない男だ。また、あんな山間の地に、金箔の高札や矢来を組んで、悠々と、試合に来る者を迎えて勝負するというのもおかしい。そういう晴れがましい風習は当時の兵法者にあったにしても、都会でのことだろう。有馬の一族という素姓があれば、土地の竹山城でも相当な礼儀で迎えるであろうから、野天試合で呼び声をかけるには及ばない沙汰である。  武蔵が十三歳頃は、もう父の無二斎は歿していたが、屋敷はあった。寛永十五年頃に公命で取壊されるまで、三十間四方の石垣が残っていたというから、かなりな構えであったらしい。無二斎の名は、十手術の達人として四隣に有名であったから、歿したのを知らずに、喜兵衛がここへ訪ねて来たものとすれば穏当《おんとう》である、少年の弁之助と試合ってもうなずける。  顕彰会《けんしようかい》本の宮本武蔵伝も、このことは、 「姑《しば》らく誌して疑いを存しておく」  といって濁しているが、僕は史実としてやはり採《と》らない。  丹治峯均筆記《たんじほうきんひつき》にはまた、こんな話ものせてある。武蔵、幼年から父の兵法を見て、いつも口賢《くちさかし》く誹謗《ひぼう》する、無二斎はわが子ながら気にくわないでいる所、当時、楊枝《ようじ》を削っている室に武蔵もいた。その小刀を手裏剣にして、ふいに投げ打つと、武蔵が面をかわしたので、小刀はうしろの柱に立った。無二斎が怒って、今度はほんとの小刀を打ったがまたかわして外へ逃げ出した。そこで、彼は家に帰らず、播州の母方の僧を頼って郷里を捨ててしまったという。  これなどは、どう考えても、受けとり難い。よほど無二斎という人物が、子に対して特異な性情の人でない限りは考えられない話だ。諸書を照合してみても、武蔵が何処で父に死別したかは明確を得ないのであるが、どっちにしても、彼が十歳未満に歿していることはほぼ見当がつく。するとまだ乳くさいほんとの子どもの時だ。しかも彼は姉はあったらしいが、後名《こうめい》をつぐ大事な一粒だねでもある。  しかし、こんな史実的に価値のない話でも、こういう村の口碑が彼の死後百年ちかい後の記述にも筆にされる理由には、何か、内容とはべつな暗示を持っていると僕は思う。そういう点でこの話は価値がある、それは何かというと、武蔵の幼少時の家庭の空気が、決して少年の肌を温かに養っているものでなかったということである。そうした家庭的欠陥は、彼のそばに母がなかったらしい所からでも実証される。  武蔵の母という人は、播州領の佐用郡平福村《さようぐんひらふくむら》の別所家から嫁いで来て、後に離別になって田住政久《たずみまさひさ》という者へ再婚した率子《よしこ》というのがそれであるという説と。——また、今大野村に墓のある於政《おまさ》というのがそうだという説とがある。  なお、於政は後家であって、武蔵はそのために、幼少から播州と作州の実家との両方に往き来していたのだというような記述もあるが、穿《うが》ちすぎていると思う。また異説には、彼は、播磨のほうから嫁いで来た婦人の連れ子であって、無二斎の眼をしのんでは、実父のほうへ逃げ帰っていたので、自分でも、播州の産と晩年まで思っていたのであろうと臆測《おくそく》を下している書もある。  どっちみち、家庭に恵まれない冷たいものが、彼の幼時をつつんでいることは見遁《みのが》し難《がた》い。  後年の彼の流浪性は、そこに宿命していると思う。晩年、岩殿山霊巌洞《いわとのやまれいがんどう》に枯骨《ここつ》を運んで、坐禅しながら死を待つあの寥々《りようりよう》とした終焉《しゆうえん》の身辺も、この家庭から生んだものと僕は思う。  直木三十五が最も憎む所の、武蔵が敵に対しての残忍なほどの冷厳さと、老後にも時々|錐《きり》のように現われた野性とは、彼の血液のうちにあったものには相違ないが、後天的にも、この家庭の冷たいものがかなり育ててはいないだろうか。両親に薄縁であるばかりでなく、彼には、青春がない、真実の女性がない、熊本に死所を得る時代までは、よい友を持たなかった。  彼が老後に自分のなぐさみに持った画筆のように、墨で一抹刷《いちまつは》いたような東洋的虚無観が、六十年の生涯を渺《びよう》として貫いているすがたなども、僕には、彼の少年時代の家庭が最も重視されるのである。直木は、彼の後年の実証を挙げて彼の敵に対しての徹底、残忍、冷厳、野性ぶりを憎悪して数えたが、僕は反対に、そこへ武蔵への同情と興味を持つ。また、人間的完成への彼の努力をよけいに買う。  そういう家庭に育まれたせいと見るほかにないのは、もう一つ、武蔵のあれほどな遺文中にも、父母のことについては、一字も誌《しる》したものがない点である。十九句から成っている彼の座右銘「独行道《どつこうどう》」は、つぶさに見ると、まったく孤《こ》そのものである。孤の寂寥《せきりよう》をいかに楽しむか、哲学するか、道徳するか、芸術するか、ほとんど生命《いのち》がけでかかっている孤行独歩の生活の鞭《むち》だと僕は見るのである。  そのうちの一章   どの道にも別を悲しまず  などは、いかに彼がそれへの纏綿《てんめん》な愚痴を抱いている煩悩人《ぼんのうじん》であるかがわかるではないか。 [#改ページ] [#2段階大きい文字] 家  系  断っておくが、僕が、武蔵の史実は要約すれば、六、七十行に尽きるものしかないといったのは、どの書物も嘘や間違いを書いているという意味からではない。  著者の主観を読むならべつだが、単に、史料の参考に漁《あさ》ってみるなら、その全部が、大同小異だからだ。小倉碑文、二天記、地誌類のうちの一部の記事あたりが原書で、あとはそれに後人の異聞や伝説が附加されているに過ぎないのである。伝写本から活字の近刊書にいたるまで、同じ史料の並列《へいれつ》だ、この書にあってあの書にないというような掘り出しの記事は絶対にない。あれば俗説の尾鰭《おひれ》か編者の史眼の混濁《こんだく》である。——ただそれらの書でも役に立つことは内容の文字よりは、書物の性質を見ることだ。また、採るに足らない口碑や異説にも微量な真実の影はあると見てよいし、時に大きな暗示を得る場合もあるからである。  宮本家の祖は元平田姓であった。明応文亀年間、平田将監という者があって、剣及び十手術に長じ、美作吉野郡の竹山城城主新免氏に仕えたのが中興の人となっている。  明応文亀というと、さあすこし遠い。山名、細川、畠山などの騒乱が頻々《ひんぴん》で、伊勢の野武士新九郎が北条早雲となる羽《は》がいの身づくろいをしながら、よい時世だと野望の眼をあげ出した時代である、武蔵が生れる九十余年前だ。  平田氏系図では、十手術も剣術も、その当時からあることに明記されているが、あることはあっても、本朝剣道の流派の祖ということになっている鹿島香取の飯篠長威斎《いいささちよういさい》、松本備前守もまだ出ない時代だ。勿論、上泉伊勢守も、有馬乾信《ありまけんしん》も、塚原卜伝もずっと後だ。その頃すでに、剣と十手術で竹山城に奉公したものとすると、武蔵の血は、家すじの剣人であったといえる。  作家の平田晋策《ひらたしんさく》は、播州が郷里だが、何でもこの平田姓のほうの流れで、武蔵の縁家が先祖だと、いつか汽車の中で聞いた。武蔵の父が新免無二斎を名のり、彼も新免姓を時々用いたのは、功があって、主君から姓をもらったのであるという。これはほとんど定説である。また信じられる。  だが、その新免無二斎|武仁《たけひと》が、室町将軍の義昭《よしあき》に呼ばれて、京都で将軍家兵法所の師範役吉岡憲法と試合をし、これに打勝ったという記録が、春山和尚と伊織の手で成った碑文にもあるし、二天記その他の諸書にも必ず載っているが、これは僕には呑みこめない。すこし墓碑銘的賛辞《ぼひめいてきさんじ》にすぎはしまいか。  御前試合というと、徳川期の吹上試合がすぐ考えられるが、足利義輝時代にはかなりそんな催しもあったろうと思われる。言継卿記《ときつぐきようき》に見える上泉伊勢守の天覧などもあるし、義輝はわけて剛勇で、最後の折、松永久秀の兵をうけて、武衛陣の庭上で、数十人の敵兵を斬って遂に斃《たお》れたという働きぶりを見ても、平常の鍛えのほどが窺《うかが》われるし、兵法者は近づけていたろうことも想像できる。しかし、義昭将軍の代になると、そんな閑《ひま》はなくなっている。義昭が、織田信長に擁立されて、将軍に任ぜられたのは、永禄十一年十月だ。それから間もない天正元年には若江に放逐《ほうちく》され、以後六年間、三好三党に襲われたり、信長に翻弄《ほんろう》されたり、また信長を討とうとして失敗したり、京都、近畿はほとんど彼の生涯中、兵馬の巷だった。叡山《えいざん》さえこの間に丸焼けになっている。義昭がそういう中で、柳生宗厳に使いをやって招いたという話は、柳生は小城でも大和の一角に嶮と手兵を擁していた豪族だし、京都と柳生谷とは十里ぐらいなものだし、兵法家としても著名だったから、味方に召抱えることは策として分るが、何でこんな境遇にあった彼が、自分の勢力も及ばない遠方の美作《みまさか》の山間あたりから、ただ剣術の巧拙を試みるだけの目的で、しかも室町家から見れば家格の低い新免無二斎を呼び寄せなどするものか。そんな平和は義昭の代には一日だってなかったといってもよい。もしあったにせよ、公方師範の吉岡憲法が、好んで勝負に立ったとも考えられない。史実として残っている碑文、その他の記事によると、三本勝負でうち二本無二斎勝つ、とあるけれど、その頃の試合で三本などはいよいよおかしい、後世の竹刀試合なら知らず木剣だ、どっちか死ぬまでと註文をつけるのも同じである。 [#改ページ] [#2段階大きい文字] 武蔵と吉岡家  吉岡家というものについては、それよりも武蔵と重大な宿命が後に生れる。武蔵が二十一歳で上京して、憲法の子清十郎、弟の伝七郎、子の又七郎の三名までを洛外《らくがい》一乗邑で、試合のうえで打ち果してしまったことだ。  この試合上の武蔵の態度を、直木は難《なん》じている口吻《こうふん》で書いている。何も、いくら強いにせよ、吉岡の兄弟二人を討ち、三度目に来るその子までを討ち斬るには及ぶまいと、武蔵の残忍に嫌悪《けんお》を持っていうのだ。実際、この時の試合というよりは果し合いでの行動は、武蔵の血に飽かない性格が見えて、僕も、人間がここまで残忍に徹しきれるかという気がする程であるが、それは武蔵の個人性にあるものよりは、社会性にあるほうが強いのだ。他の誰の試合の場合に徴しても試合は果し合いだったのである。殺伐《さつばつ》が人生を高調させている動乱の中では、彼の残忍だけを顰蹙《ひんしゆく》できない。それと、吉岡家は権門であるし、門下や家の子の尻押しが、かなり武蔵の激昂を煽《あお》ったことも見てよいだろう。三度目に最後の又七郎を押し出した時などは、数十人の門輩が飛び道具を持ち出して、武蔵の来かかる途上にまで陣形を作って迎えたものである。彼ひとりに対して一方はまるで戦争支度なのだ。当の又七郎が年少であったにせよ、死を与えたのはやむを得ないと思う。年齢でいえば武蔵だってまだ二十一か二であったのだ。  この時の実状を伝えたものでは、武蔵伝に対して、それを反駁的《はんばくてき》に逆に書いている「吉岡伝」という一本がある。  僕はその抄出《しようしゆつ》を他の書で読んでいるだけで、実物を手にしたことがないから、著者福岡某がどんな人物で、どんな書質か、考究のうえで確《しか》ということができないが、伝え聞くところに依ると漢文の小冊子で享保年間の刻になり、吉岡家の剣法を気障《きざ》なほど称揚しているもので、内容には、九州の天流の名人浅山三徳という者を試合で殺伏し、それを知って挑戦してきた鹿島村斎《かしまそんさい》という荒法師もまた一撃に打ち殺し、やがて宮本武蔵という男も来て立合ったが眉間《みけん》を打ち破ったので、後日改めて試合をやり直すというわけで別れ、さて愈※[#二の字点、unicode303b]約束の日になると武蔵は行方を晦《くら》まして逃亡してしまった。  こういった調子の書物である。このほかにこんな記事の載っている書物は一種もない。おそらく武蔵の名声に対して、後の吉岡側の縁類の者でも著述したのではあるまいか。そういう例はずいぶんある。直木はこの吉岡伝を取り上げて反対側の武蔵伝がすべてこの書の云い分を全く収録していないのは怪《け》しからぬ、それで公平に武蔵が考えられるか、両者を比較してみて、なお武蔵伝が絶対に正しいといえる者があるなら、その研究方法を聞きたいものだ——と独りで怒っている一節を全集に残している。  どうもつい、死んだ直木をひき合いに出して、僕も口のない人間に独り論議をやってるようですこし気が咎《とが》めて来たが、実は、四年ほど前に、直木がさかんに改造だの文藝春秋などで、武蔵をこき下ろしていた最中、読売新聞の座談会で出た僕のことばの端をつかまえて、武蔵を賞《ほ》めた側に立った菊池寛と共に、僕も文藝春秋の上で呶鳴られたことがあるのだ。  何も今、決してそれを遺恨に書いているわけじゃないが、正直にいうと、直木が呶鳴った頃は僕はほんの観念的にしか武蔵について知識がなかったのである。五輪書や独行道《どつこうどう》ぐらいを含味《がんみ》して、剣道初期の剣人の中では、最も心境の高いところへ行った人間と考えていた程度で、座談会で武蔵を支持して云ったのも信念ではなくて、好きだというような気持のほうが多分で、確乎《しつか》りした論拠と実証を持たないでの言葉であった。  そこを直木が、得たりとつかまえ、翌月の文藝春秋で、 「吉川英治が読売でいってるように、私の云った十ヵ条と、武蔵の逸話を、ことごとく考証的説明がなければ信用できないというような論がでるかも知れない。だが吉川は私の論難に考証的根拠がないのを指摘しながら、自分が何ら考証的根拠を示さず、武蔵はえらいとか、精神力も彼の如きはとか、断言しているのは少しおかし過ぎる。どういう風に武蔵はえらいのか、その実例考証一々発表してもらいたい」  直木のこの手を喰うと、私はまんまと、武蔵以上|傲岸《ごうがん》で不遜《ふそん》で仮借《かしやく》のない彼の木剣を、そら商売と大上段から貰ったに違いない。あの前後の直木というものは、武蔵以外の剣道史の研究では実によく書目を曝《さら》して、遂に果さなかったらしいが、その研究を幕末の剣客にまで亘ろうとするらしい、一つの剣道文化史を目標にして初期からおそろしく熱中して諸所の雑誌に散稿を送っていたものである。僕は立合わないうちから敗れを知っていたから立たなかったのだ、そんな誘いの剣尖《けんせん》につり込まれたらよい見世物である。  だが、僕はそのまま引き退がるつもりではなかった。宿題として、自分に答えうる準備ができたらお目にかけるつもりだった。以来忘れたことはない。事武蔵に関する限りどんなくだらない物でも、断簡零墨《だんかんれいぼく》、心にとめて五回や十回の応戦には尽きないだけの論駁《ろんばく》を持とうと願っていたのである。ところが、先へ死んでしまった。  新聞小説に武蔵を書き、ここにこんなことを書くのも、しかし、亡友の毒舌の恩である。あの男のことだから、ここまでのことでも、たくさん異論を抱くだろうが、死んだが損というものだ、こんどはそッちで苦笑していてくれ。  横道へ外《そ》れてしまったが、さて、いくら武蔵伝の側に史実性が貧弱で、要約六、七十行の正伝しかないにしても、享保版「吉岡伝」などはどう煎《せん》じ出してみたって、史実のシの字も出てくる書じゃない。僕は、実物を手にしないことを遺憾とし、他書の抜抄《ばつしよう》をもってしかも断言するのだが、そんなもの見なくたって分り切っている。およそ史書を漁《あさ》るのにその程度のカンがなかったら五十年を何百年生きていても、そのほかに小説などは書けまい。このカンは僕よりも直木のほうが遥かに豊かだったことは、今以て僕の追慕するところでもある。  とにかく「吉岡伝」は、武蔵伝の群書に対して、余りに権威がなさ過ぎる。悪戯《いたずら》にもならない稚気《ちき》の著述である。それというのも、吉岡家は武蔵との三度の試合で、致命的な絶家の形になり終っている。当然そうなったと見るのは臆測でも無理であるまい。もし、吉岡側の系縁の者があって、二天記、その他の諸書が、続々流布されるのを見たら、よしこっちも書いてやるぞといった気になるのはこれもあり得ることではあるまいか。  吉岡伝にあるように、武蔵が約束の日に、逃亡してしまったような事実がないまでも、もし武蔵の行動に、正々堂々がなく、残忍、傲岸唾棄《ごうがんだき》する態度があったなら、当時の時風で、あれほどな権門《けんもん》の一族門人が、彼に手を振らして天下を歩かせて措《お》く筈はない。いくらでも復讐できる。この試合ばかりでなく、武蔵の手にかかって落命した者は無数だろうし、姓名の知れている敗亡者もずいぶんあるので、彼に、卑劣があったら、彼もまた、いつかきっと殺されていたと思う。血縁でなくても、他人でもそういう卑劣はゆるして措かないのが当時の社会である。まして、傲岸、野性残忍というような、人の忌《い》む性格が直木のいうほど武蔵の全貌であったとしたらば、試合といわず、謀《たくら》んでも彼の生命を仆《たお》してみたい気持を当時の人間は誘発されたであろう。  吉岡家にはまた、前の吉岡と後の吉岡との二軒あったという説もある、これは水南老人楠正位という人のいっていることだ。そのせいか、この家系も、吉岡憲法の事蹟も甚だややこしくて、年表と照合しないと、何が何だかわからないような話が多い。  憲法という名も、書物によっては、拳法とも書いてある。新聞小説のうえでは、どうも憲法という文字が、現代人には、政治上の同字にひびいておかしいから、僕は拳法のほうを用いている。けれど、拳法もまた、ほかの字義に通じるから変に気がさすとこれもおかしくないことはない、どうも困った名だ。  どっちがほんとかというと、憲法のほうらしい。それも憲法を憲法《たけのり》と訓ませるのでなくて、憲法斎という号じゃないかしら。政治語の憲法を聯想すると妙に人間ばなれがしてしまうが、聖徳太子の御起草に用いられた憲法十七条の憲法は、群臣への訓示的な御用語で、いわゆる今日の憲法とは大いに意義がちがっている。それに昔の慣用語では、   「物事をすべ能くする事」  ということを憲法といい、また如法《によほう》ともいったそうであると。元弘年間の北条与党の僧兵のうちには、笹目憲法と名乗った坊主もある。だから憲法という名はそんな意味で、当時では少しもおかしくない名であったに違いない。  この憲法が、武蔵の父無二斎と、義昭将軍の前で試合をしたという事蹟は、前に否定したが、清十郎、伝七郎などと、武蔵が対立した頃は、もう子と孫の代であるし、それぞれ皆、相当な年齢に考えられるから、すでにその折の慶長九年には、吉岡憲法はこの世にいなかったことは確かだ。ところが、それからでさえ十年も後の慶長十九年六月に、禁裏にお能《のう》があって一般の者に南苑で拝観をゆるされた節、吉岡憲法が禁庭で暴《あば》れたという話が、本朝武芸小伝とか、古老茶話とか、諸書に載っているので、ちょっと煙に巻かれる。  その話を掻《か》いつまんでいうと、当日、お能見物の民衆の中に、吉岡憲法なる者も交《ま》じっていて無作法を見咎め、雑色《ぞうしき》が来て、 「あたまが高い」  と金棒で叩いた。憲法怒って、いちど禁門を出、着物の下に刀をかくして出直し、先の雑色を斬り伏せ、なおかかる者を打ち伏せ打ち伏せ、舞台まで血汐によごして狂い斬りに死んだという。  常山紀談などによると、所司代|板倉勝重《いたくらかつしげ》が、薙刀《なぎなた》を持って出たり、撃剣|叢談《そうだん》では勝重の家来太田忠兵衛が働いたり、いろんなことになっているが、話の脚色はともかくとして、いったいこれがあった事件か。  慶長十九年といえば、大坂落城の直前で、冬の陣の起った年である。京坂間は物情騒然たるものがあった、禁裏を開放して、民衆を入れるなどということが例の少ないばかりでなく、社会情勢と一致しない。また、お能天覧がいぶかしい。なお辻褄《つじつま》の合わないのはその中に吉岡憲法がいる、おまけに狼藉ぶりが匹夫野人《ひつぷやじん》の沙汰である。  清十郎は、武蔵との試合の折、、絶息して戸板にかつがれて帰り、後に傷の手当がかなってから僧門に入って生涯剣をとらなかったとあるから、この人物ではあるまい。  弟の伝七郎も、清十郎の子又七郎も、一乗寺|下藪《したやぶ》の武蔵との決戦で即死しているからこの者達でないことも明らかだ。また、あれほどの大試合で、一家骨肉三名までが斃《たお》れ、弟子も離散した後、なお、吉岡憲法の名をついで、洛中《らくちゆう》に初祖憲法の声誉と家名を汚《けが》して歩いていた遺族があるとすれば、これは箸にかからないことになるが、落魄《らくはく》しても、室町兵法所出仕の息子や孫のうちで、そんな不心得者があったとは考えられない。結局、この話なども、かなり諸書に採用されている説だが、この一項も、僕だけは抹消する。 [#改ページ] [#2段階大きい文字] 離郷附本位田又八  小説の宮本武蔵の上で、その発端に、僕は関ケ原から書き出して、二天記、武蔵伝、その他諸書がほとんど一致している彼が十七歳の折参戦を書いているが、武蔵が果たして関ケ原の役に出たかどうかも、厳密にいえば、まだまだ研究の余地は充分にあるのである。  ここでちょっと、朝日新聞の学芸欄で抗議された帝大の本位田祥男氏に物申しておくが、あなたは小説と歴史とを混同しておられる。また、史実というものを、よほど信仰的に思いすぎておられると思う。この前の拙稿でも露骨にいった通り、史書そのものからして実に玉石同盆という厄介なもので、滅多に鵜呑《うの》みにすると、苺《いちご》と思って石を噛むことが少なくない。  仄聞《そくぶん》するところに依ると、大兄は拙作の小説宮本武蔵のうちに出した本位田又八という人物と同郷同姓であるために、帝大の学生諸君から、「又八、又八」という綽名《ニツクネーム》をもって呼ばれ、甚だ迷惑をなすっているということなので、その点、僕もお気の毒にたえないのであるが、それを以て憤然、朝日新聞へ寄稿された大兄の [#ここから1字下げ] ——宮本武蔵と私の祖先 [#ここで字下げ終わり]  という一文には、こちらからも申し分がある。 [#ここから1字下げ] (——吉川氏の書く所は史実及び私の家の云い伝えと甚だしく異っている) [#ここで字下げ終わり]  と冒頭して、本位田家の末孫として、大兄が祖先の寃《えん》を明らかになさろうとする点は充分にわかるが、あの小説を読まれて、(本位田又八という男は、系図を見たが出ていない。〔中略〕新免家の侍帳にも見あたらない。そして、誰かが関ケ原の戦いに出陣したかと探したが、どうも見つからない。〔中略〕若《も》し出陣したとしても、あんな軽輩としてではなかったろう——云々)  大兄にこういう手数まで煩《わずら》わしたかと思うと、愈※[#二の字点、unicode303b]、相すまない気がするが、本位田姓は、あの地方に多い特有な姓氏であり、中位田《ちゆういでん》とか小位田《しよういでん》とかいう官田の称号が姓氏に変化したもので、滅多にない名だけに、すぐおれの祖先を書いて怪《け》しからぬと思われたのであろうが、僕が大兄の家の系図を覗いたことはないし、古書にもない又八などという人物を、幾ら大兄が系図やお手許の古書を探したって、出てくる筈もないことは凡《およ》そわかりきったことである。 [#ここから1字下げ] (——ともかく又八とお杉婆さんとは、吉川氏の純然たる創作であろう) [#ここで字下げ終わり]  といっておられる通りである。しかし、その後で、 [#ここから1字下げ] (——初めから武蔵の引立役に道化《どうけ》として引出された以上、好い役割はなかろうと思っていたが、あれはひどすぎる。昔から一人の英雄豪傑を作り出すために、出てくる相手は多く弱虫であり悪人である。今日の大衆文学も、この講談の亜流であってよいだろうか。作者以て如何となす) [#ここで字下げ終わり]  小説の宮本武蔵を読んでくれている人にはわかっているだろうが、本位田又八は、元より大兄の先祖でも何でもないが、また、特に武蔵の引立役だの道化には少しも書いていないつもりである。ありふれた現代の青年の一つの型をとって慶長の戦国に呼吸させてみたまでのことである。また、武蔵その者も主人公ではあるが、べつだん英雄豪傑に曲げて書こうとする意志なども少しも持たない。おれの家の系図書にもない人間を描《えが》いているから講談の亜流だなどは大兄の感情に過ぎないものだ。  顕彰会本その他によく掲出されている本位田外記之助と新免無二斎との事件をとりあげて、 [#ここから1字下げ] (平田無二はこのために籠居《ろうきよ》し、その子武蔵も、故郷に容《い》れられなかったのであろう。早くから父に従って、播州に行くこと多く、遂に永久に故郷を後にした) [#ここで字下げ終わり]  と大兄は、武蔵の離郷をそれと決めているが、十七歳の出陣説を抹殺する有力な確証でもなければ、これは断定できないことであろう。  第一、無二斎は、明確に歿年は分らないが、武蔵が極めて幼少の時に、既に他界している。それからまた、大兄も引証の書として「東作誌」の記載にもあるように、 [#ここから2字下げ]  宮本武蔵事、九十年以前ニ、当村出行仕候。ソノ節分家ノ系図証文道具等、与右衛門ニ渡シ、其後九郎兵衛請取、コノ人耕作勝手ニ付、宮本ヨリ十町バカリ下ヘ罷リ出、農人仕リ居リ候 [#ここで字下げ終わり]  とあるから、かなり成人の後、離郷したことは明らかで、なお同書の記事を史実とするならば、 [#ここから2字下げ]  武蔵浪人ノ節、家ノ道具十手|三鎖《みくさり》、嫡孫左衛門ニ渡シ置候由、六十年以前ニ九郎兵衛時代ニ焼失—— [#ここで字下げ終わり]  ともあるし、また、 [#ここから2字下げ]  武蔵、武者修業ニ出立ノ時、森岩彦兵衛、中山村ノ鎌坂ニテ見送ル時、武蔵突キタル杖ヲ森岩ニ与ヘテ離別ヲ告グ木剣ナリ  長サ三尺五分、厚ミ一方ハ四分五厘、一方ハ二分五厘、正中ニ稜アリ、コヽニテ厚サ五分、上下共ニ端円ニシテ首尾同ジ、枇杷ノ木ニテ黒シ。同村森岩長太夫ガ家蔵タリ。ナホ外ニ、武蔵ガ念ズル観音ノ小像モアリシガ、近年紛失シタリトモイフ [#ここで字下げ終わり]  明白に父の無二斎に連れられて播州へ行ったまま消息不明になった次第などではない。また、本位田外記之助との事件が、離郷の原因でないこともこれを見れば分るのである。もし、あの事件が禍根とすれば、武蔵の離郷がもっと幼少でなければ辻褄《つじつま》が合わないし、また、東作誌そのものが記載を逸している筈はない。——で大兄の如く、東作誌を史的に認めるならば、同書から僕が抜いて、ここに掲出した記事も同時に認めてもらわなければならない。そうすると、貴説は論拠をなさないことになるが—— [#改ページ] [#2段階大きい文字] 流寓の新免家六人衆  武蔵が、十七歳で関ケ原の役に参加しているという諸書の推定は、父の主家|新免宗貫《しんめんむねつら》が、浮田秀家所属で、西軍の中枢勢力であったから、当然そうあるべきことにされているので、これとても先にもいった通り、まだ考究する余地が多分にある。  なぜならば、黒田家侍帳の方にも、新免伊賀守の名があるのである。その黒田家では、慶長五年の関ケ原の際には、九州の大友|義統《よしむね》が、中央の大戦に乗じて、旧領の豊後を奪還しようとして兵をあげたので、黒田如水は、これに当って、一万人の募兵を引っ提げて出陣した。——武蔵十七歳にしてこの陣にあって功名したと、その方に記載されているというのである。  これが正しいとすると、諸※[#二の字点、unicode303b]の武蔵関ケ原出陣説は、皆怪しいことになるので、奇説を吐くといわれると困るから、黒田家文書に依ってそれを提示した研究者の名を明らかにしておく。それは、近代の兵学家だった楠正位《くすのきまさただ》氏が生前ある雑誌に発表していた説なのだ。同氏の研究に依ると、武蔵伝にある武蔵が城乗りの先登をしたという話は関ケ原ではなく、この黒田大友の合戦であろうといっている。  とにかく武蔵が参加した実戦というのは、このように不明なものだが、関ケ原とか大坂役とかいう大戦以外の、歴史面にも記録されないような小合戦でも、当時は、戦と見たことに変りはないから、或はそういう場合をも数えているのではあるまいか。  いずれにしても、武蔵ばかりでなく、新免家の侍《さむらい》たちが、関ケ原以後、敗走兵として、他国へ流寓していたことは事実に近い。「新免家侍覚書」を見ると、戦後新免伊賀殿の内の六人衆といわれる内海《うつみ》孫兵衛、安積小四郎、香山半兵太、船曳杢右衛門、井戸亀右衛門、木南加賀右衛門などとよぶ家臣たちが、小倉に流れて来て、小さな借家に同居し、馬の草鞋《わらじ》を作って生活していたという話が載っている。  これなどはいかにも、敗《ま》けた武士というものが、どんな悲惨な生活に落ちてゆくかが分って、当時の社会相が目に見えるようだ。  本位田祥男氏は、僕の書いた小説の武蔵と又八の出陣を、あんな軽輩の筈はないといってるが、すでに父の無二斎の折に宮本家は主家の禄をうけていないし、せめてその父でもあればだが、歿後の一郷士の子が野心的に参加してゆくとなれば、あの程度でついてゆくほかはあるまい。また、当時の彼は、農になって鍬を持っても、商工業者にかくれて身を落しても、いつでも風雲の機会さえあれば、野望を持てるという信念があるので、決して、今の人間の没落のように零落《れいらく》を考えたり身分にこだわっていないのである。  前の新免家の六人衆などでも、馬の草鞋を作って生活しているうちに、小倉の細川三斎公の耳に入って、 「不愍《ふびん》である。取立ててやれ」  と、召出された。  ここがちょっと「話」になるから、ついでに書いておく。  細川家では、そういう零落している侍たちなので、六人へ対し千石を与えるといった、かなり慈悲なつもりであったろう。  ところがそのうちの六人衆上席の内海孫兵衛の老母が、 「いかに零落したればとて、一名二百石に足らぬ禄にて奉公さするは忍びがたい」  といって断わってしまった。  細川家では、六人のその身分を正して、内海にはべつに高禄をやることにした。そして城内へ召出したが、苦労人の老臣が三斎公に向って、 「彼らの家は、よほど零落もひどく見うけますれば、城内へお召寄せの前に、手当をおつかわし下さらぬと、服装などもいかがあろうかと思われますが」  といった。三斎公は笑って、 「身仕度を抱えるわけではなし、まあ、黙って見ていよ」  と関《かま》わずにいた。その日になると、六人が揃って登城して来たが、見ると、服装も大小も各※[#二の字点、unicode303b]抜かりのない姿をきちんと整えていたので、先にそれを案じていた老臣は、 「あやうくよい恥をかくところだった」  と、後に三斎公へ自己の不明を恥じたということである。  この話を以て想像すると、新免家にも、相当によい侍がいたらしい。楠正位氏の関ケ原参加否定説はともかくとして、同じような経路を辿《たど》って、黒田藩へも、新免浪人が幾人か抱え込まれたことは確かであろうし、その他、小笠原家、本多家、有馬家などにも、奉公を求めた侍がだいぶある。従って、武蔵と同郷の知縁は、各藩にひろく分れてあったことは推察できる。これは、武者修行として彼が遊歴する上に、後年、非常に有利な足がかりとなったにちがいない。楠正位氏なども、従来の武蔵研究の材料の大半は九州地方からのみ出たものであって、武蔵が後に特別な愛寵《あいちよう》をうけた本多家などからは、武蔵の門人もあったのに何らの材料もまだ出ていないし、黒田、小笠原、有馬などの書庫も未開なので、そこらを捜《さが》せばまだ蒼海の遺珠があるだろうといっている。  そういえば、武蔵の逸事として遺《のこ》っている話から推してゆくと、武蔵は殆ど、その生涯を旅に送り、その足跡は、関東地方は勿論、出羽、奥羽にまでわたっているが、京都以北においては、何の文献もまだ掘り出されていない。ただわずかに或る時代を下総《しもうさ》行徳在《ぎようとくざい》の藤原という土地に一庵をむすんで住んでいたという伝説があるくらいなものだが、肝腎《かんじん》な彼の江戸における行動など少しも審《つぶ》さでない。僕が、武蔵の史実としては、要約して約七十行程度のことしか残っていないと嘆じたのは、決して誇張ではなくて、それ以上、武蔵の新史実を発見しようとするには、考古学者以上の根気をもって、そういう彼の足跡や大名の未開文献から発掘するほか手段がないからである。 [#改ページ] [#2段階大きい文字] 三宅軍兵衛との試合  しかし、世間にまだ伝えられていない「話」の程度の所謂《いわゆる》史実らしい記事を古書から発見することはさまで困難ではない。  本多忠勝の嫡子美濃守忠政は、元和三年に姫路の城主になって移封している。姫路には従前の関係で、武蔵の門下が多く、武蔵のうわさも従って忠政の耳によく入るので、武蔵を招き客分として待遇したり、また彼の道を聴いてふかく学んでいた。  忠政は寛永八年に歿した。子の政朝《まさとも》が江戸から入部して領をうけた。その時、叔父の出雲守忠朝の子の入道丸の分地も預かることになったので、入道丸附の家臣もだいぶついて来た。  本家の家臣は、前々から武蔵の人物をよく知っているので、武蔵を侮《あなど》る者はなかったが、入道丸附の家来のうちで、姫路へ初めて来た者のうちには、藩で優遇されている武蔵という客分に対して、反感を抱く者がおった。  三宅軍兵衛、市川江左衛門、矢野弥平治などで、主人の入道丸の父忠朝は、大坂役の夏の陣で戦死して、剛勇|絶倫《ぜつりん》といわれた大名だけに、その家臣のうちにも、豪を誇る人物が多かったらしい。  それに、入道丸方の分家本多では、前から東軍流の流風が尊重されていた。殊に、三宅軍兵衛というのは、躯幹《くかん》長大で荒木流の捕手術をよくする上に、剣をつかうことは数度の実戦を経験して、それに法を加え、東軍流の名人として人もゆるしていたという。  この男が、本藩に来てから、武蔵の流風を冷笑していた。或る時、前の四人連れで、武蔵に試合を申しいれ、藩主からの賜邸である武蔵の住居《すまい》へ訪れたというのだ。少年が取次に出て、十四畳の間に四人は坐った。主人の風貌にはまだ接したことがない。どんな男かと待ち久しげに待っていると、やがて、台所から座敷へ通う細廊下からずっと主人の武蔵が出て来たというのである。  武蔵の風貌というものを、諸書の信じられる記事から摘要して、ここにまとめてみる。背は六尺あったというが、物尺《ものさし》で計ってのことではあるまい。いわゆる六尺豊かである。五尺六、七寸はそう見える。中年以後には短い口髭《くちひげ》があって、頬髯《ほおひげ》がまばらにのび、晩年には剃《そ》らないので、それが小さな渦を描いていたという。彼の真像として伝来している大小両剣をひっ提げている立像を見ると、眉の先が刎《は》ね上がって、鼻ばしらが高い、眼形《めなり》は幾分か三角形であり、そして云い伝えられるところによれば、瞳《ひとみ》はすこし茶色をおびていたということだ。年齢にもよるが、晩年の両頬はこけぎみに落ちて、顔全体からいえば面長な方である。  彼の肖像を見ると何さま精悍《せいかん》な気をうける。T氏は、武蔵が二刀を持って立っているあの肖像画を常に壁間《へきかん》に懸けているが、何か剣道の論義が出る時など、客に向って、 「では君は、この肖像を打ち込めるか」と、いうそうだ。  僕などには分らぬが、あの武蔵の肖像は、堂々たる構えだそうだ。両わきの腰の辺りに拳《こぶし》を当てて大剣と小剣を左右に一見ぶら下げて立っているに過ぎない姿なのである。  十四畳の部屋に待っていた三宅軍兵衛たちの四名の来訪者の前に、台所の通路にあたる細廊下からのっそり出て来た武蔵の姿は、まずそんなものと想像していいだろう。前日、あらかじめ試合のことは使いで達してあるのだから、それは武蔵も承知してのことである。  その時の武蔵は、長短二刀の木剣をひっ提げて出て来たとある。そのまま、挨拶して、すぐといわれたので、四名はややあわて気味にみえる。武蔵が四人御一緒でもさしつかえないというと、軍兵衛は憤色をあらわして、一人すぐ立った。  七尺ほどな距離をおいて二人は対峙した。ほかの者は、次の間を開けて避けた。どっちもややしばらく動かない。すると、武蔵はするすると退《さ》がって、戸口の隅へ退《さ》がった。三宅が、つけ入って迫るかと思うと、これも反対な方へするする退《の》いて、庭縁の障子の所に構えを止めた。これはどっちも「間合《まあい》」をとるためと見られた。「間合」というのは、かかり、呼吸、力学的な機微、勘と動作、あらゆるものを一擲《いつてき》の瞬間に最も効果的にあつめようとするその電撃の間を計ることである。武蔵はこれを兵法三十五ヵ条のうちで「見切」といって説いている。  そしてこう双方のひらいた場合を「遠間《とおま》をとる」というのである。距離を作ることは一見敵を避けるように見えるが、実は、加速力を蓄えるためであるから、木剣試合の場合などでは、殺すぞ、と宣言するのと同じである。つまり真剣勝負にひとしいのだ。  武蔵はやがて、長短の二刀を円極(合掌《がつしよう》ともいう)に組合せて、迫って来た。三宅も上段にとって爪先から寄合せてゆく。すると武蔵は、一方の太刀を三宅の鼻先へ突付けるようにしたので、三宅は怒気をうごかして拝み打ちに下ろした。武蔵は、二刀を分けて彼の木剣を外《はず》し、また忽ち組み合せて三宅の木剣を抑えつけたまま一歩退がった。軍兵衛は抑えられた太刀を引き外して躍り打つと、武蔵はまたその太刀をかわして前と同じように二刀で上から圧《お》したまま後へ退がって行った。武蔵の背はうしろの壁につきそうになった。三宅は自己の勝利を信じて、中段に構えを変え、機を見て諸手《もろて》に突いてゆくと、武蔵は、 「無理なり」  といって、左の小太刀で刎ねのけ、右の太刀で三宅の頬を突いた。仆れた三宅を見て、連れが驚いて駈けよると、武蔵は、 「今、薬を進ぜる」といって、薬と木綿を持って来て与えた。  三宅軍兵衛は、その後、武蔵に師礼をとって、深く武蔵に心服してしまった。この話は、軍兵衛の口述として写本に伝わったもので、それも武蔵の逸事を伝えるために書かれたものでなく、故殿《ことの》(本多出雲守)のお供《とも》をして、大坂陣に加わった合戦の思い出話として、よく他書にもあるように書き伝えられたものらしいのである。  その軍兵衛が、常々、語り草にしたことには、自分の生涯のうちで、怖ろしいと思ったことが二つある。その一つは、故殿のお供をして、夏の陣にあった折、その日は城方の真田、毛利、すべての諸将が、討死の覚悟とみえた日なので、こちら方の越前様《えちぜんさま》も、小笠原様も、必死のていにお成りなされて、刻々両陣が迫り合った時は、何となく陽《ひ》も暗くなり、物音といってはただ他の戦場の人馬の叫喚が遠く聞えるばかりで、両軍とも一瞬、槍をそろえて見せ合ったきりで、何ともいえぬ殺気の中に寂《しん》となって、誰も出る者もなかったが、思いきって、自分が真っ先に槍をすすめ、それから乱軍になり、お味方は殆ど討死のからき目に遭《あ》ったが、ちょうど宮本武蔵という者に、初めて会って、あの二刀をさげて戸口から出て来た時には、大坂陣の折の槍前よりも一層凄いものを覚えて、瞬間、気怯《きおく》れがしたが、それがすでに自分の敗けであったのだ——と、こういったような記述をしているのである。 [#改ページ] [#2段階大きい文字] 佐々木小次郎について  この本多藩での試合は、世間に伝わっていないが、武蔵を語るために語っている記事でないし、また武蔵の伝記を高揚するために書かれたものでもなく、他藩の者の聞書の中につつまれてあるだけに、却って信頼できるような気がする。  この試合談などから比較すると、船島における佐々木小次郎との試合などは、極めて記述が不足である。最も重大なる欠点は、相手方の小次郎の年齢が、諸説まちまちで確定のつかないことである。オール讀物の短篇に、鷲尾雨工氏が、船島の一篇を書いているが、それを見ている群集に小次郎の年齢を論じさせているのはちと苦しい。しかし、その推算を小次郎の師と伝えられている富田勢源《とだせいげん》の伝に拠って考証している点は史眼があるといっていい。越前浄教寺に起った中条流の富田一族と、その兄弟五郎左衛門、治部左衛門などの年歴を見てゆけば、その家人であり弟子であった佐々木小次郎が、慶長十七年の船島の試合の時、十八歳であったなどという説の間違いであることはすぐ看破できる。  二天記、武蔵伝などという信用できる筈の書が皆、こんな説のまま記載しているのだから惜しまれる。そうかといって、雨工氏の推算で行っては、結局、小次郎は六、七十歳の老人でないと合わないことになってしまう。結局、小次郎の師富田勢源の年歴から計算することも臆測に過ぎないことになるし、また、佐々木小次郎が六十以上の老人であったりすることは、船島の試合の手口から考えて甚だおかしい。有名だからここには詳記しないが、武蔵と小次郎との試合では、試合う前に、武蔵が精神的に七分の勝ちをつかんで臨んでいる。京都で吉岡清十郎一門と試合った時にも、同様な兵法を踏んでいるが、船島でも、武蔵は小次郎を勁敵《けいてき》と見たので、よほど大事をとったらしい。  敵を精神的にみだしてから立ち向う。合戦ならば、その陣心に乱れを起さして鼓《こ》を打つのと同じだ。そのために武蔵は、相手を怒らせては萎《なや》し、萎しては怒らせ、再三それを繰返してからいざと太刀を取っている。  小次郎に対しては、第一にわざと約束の時を遅刻して行っている。小次郎がそれを責めると、きょうの試合は御身が負けた、といって精神的な動揺を彼に与えているし、さらに、それから悠々と支度をしたり、船中で削《けず》って来た樫《かし》の木剣を持って立ち向ったり、なお仔細に武蔵の一挙一動を見て行ったなら、すべてが、戦前に戦っているので、それに乗ぜられた形にある小次郎の敗死は何といっても手口が若い。  まさか十八歳ではあるまいが、また決して六十や七十の老熟円満な人物の試合ぶりとも見えないのである。細川藩でも、実際にそんな少年であったり、老先の短い老人であったら召抱えもしまいと思う。武蔵としても、あの試合は、自分から進んでやった試合でもあるし、殊に公開された勝負であるから、相手が、老人や少年なら望みもしまいし、またやっては不利である。勝っても不利な試合などを胸中常に兵法のある武蔵が進んでやる筈はないと思う。  では、小次郎の年齢は何歳ぐらいに見るのが至当かという問題になる。すでに巌流という一派を独創して、諸国に名も聞え、細川三斎が招いて抱えた程な人物とすれば、どうしても三十歳以後ではあるまい。しかしそうなると小次郎が富田勢源に師事したという諸説は空文になるが、僕の考えでは、勢源と小次郎とは、半世紀以上も時代がちがうから、直接の門弟ではなく、その系流の誰かに学んだのが、流祖勢源の直弟子のように後に誤記されたのではなかろうかと思う。  そう考えてゆくと、勢源の実弟治部左衛門は、豊臣秀次に刀術を教えているし、その門人山崎与五郎という上手は、富田家の聟《むこ》になって、後に前田利長に仕え、末森《すえのもり》の後巻《うしろまき》に勇名をあげている。従って、中条流から派生した富田流は、加賀にも繁栄して、越前浄教寺村以外、その門流はかなり多かったらしい。おそらく小次郎もそういった後代の富田門から出身した一人ではあるまいか。  武蔵が船島で小次郎と試合うために、船中で削って行った櫂《かい》の折れの木太刀というものが、細川家に残り、それが今も九州に伝来されているということは前から聞いていた。  先頃京都の清水寺の一院で、土地の文学演劇壇方面の関係者、美術家、実業家などが一夕集まって、僕を中心に、武蔵の話をしたことがある。その時、O氏が、武蔵の使用した櫂の写しという物を持って来て、皆に見せた。  ちょっと持って見ると、僕らには、両手でも重くてうかつには持ち上げかねる重さである。木は赤樫《あかがし》で、四尺七、八寸ある。櫂なので握りも太い。これに水分が加わっていたら普通の力では振るには困難であるし、正眼に持っていたら、支えているうちに疲れてしまうだろうと思われる。  小次郎が、これで打たれたとすれば、脳骨が砕けたことは当然だろう。しかし、これが木剣のように自由に振れるかしらということが、誰にも疑問に考えられた。O氏はそれを僕に贈ってくれたので、東京へ持ち帰ったが、持って帰るにもかなり厄介な重量だった。 [#改ページ] [#2段階大きい文字] 二刀について  それについて、これも余り知られてない話だから紹介しておいてもよかろう。本多政朝、政勝の二代に仕えた重臣で、石川|主税《ちから》という人物がある。或る時、武蔵を午餐《ごさん》に招いて、他の客と共に歓談した。  そのうちに、客の一人が、武蔵の流儀について訊ね出し、二刀をつかうには、人一倍力量がなければなりますまいが、私のような力のない者にも、御流儀の修行ができましょうかと訊いた。  武蔵はそれに答えて、 「剣道は力を主とするものではないから、その御懸念はさらに要《い》らぬことである。二刀といっても、左右の手に、易々《やすやす》片手で振ることのできる程度のものを用いればよろしい」  といった。すると客は、やや奇を好んで、 「甚だ失礼ですが、先生は長身でいらっしゃるし、お力の程も逞しいものと伺っていますが、両刀をおつかいになる場合は、およそどれくらいな程度までの物をお用いになりますか」  という。武蔵は首を振り、 「いやなに、各※[#二の字点、unicode303b]と大した変りはありません。しかし、得物《えもの》も時によっては、自分の用意以外の物を使用する場合もあることゆえ、使いよい程のものは——」と、主人に断って、床の間にすすみ、そこに立てかけた五匁目玉の鉄砲を二|挺《ちよう》持って、座敷の中ほどに坐り直した。そして、鉄砲の巣口《すぐち》の方をつかんで、左右の手に一挺ずつ水平に上げて、 「こう片手に支えられる程の目量なら、かくの如くに、自由になりましょう」  と、立膝になると、左右の手を甲乙なく振り廻して見せた。二挺の鉄砲は、隆々と風を呼んで、見ている者の眼には、それがちょうど二箇の環《たまき》を空中に描いていたようだったということである。  武蔵が二刀を使ったかどうかということも、問題になっている。戦に当って、実際に二刀を使用したことはないようだ。また、武蔵の号を二天というが、二刀流とはいわない。円明流というのが宮本武蔵の流派である。  本位田祥男氏もいっているように、幼少の時、故郷の荒牧神社で、太鼓の撥《ばち》を打つのを見て二刀の利を思いついたというのは、一説であるが、真実とは受けとれない。また中国の或る海浜で漁夫の群れに狼藉《ろうぜき》をうけ、必死の働きのうちに二刀を発見したという説にも賛成できない。要するに、武蔵にとっては二刀も一刀も差別などはなかったにちがいない。直木は頻りと、二刀の愚を論破しているが、武蔵にとっては当らない非難である。二刀も一刀も、それが道具づかいの利を論じたり、技の末に工夫を凝らしているようで、どうしてあの時代の一《ひと》かどの剣人といえよう。柳生流でも、極意は「無刀」といっているのだ。そして、また武蔵も、五輪書の最奥の一行には、こういってむすんでいるではないか。 [#ここから2字下げ] 兵法の事総じて、万里一空《ばんりいつくう》、ことばにては云ひ難し [#ここで字下げ終わり]  究極は実にここへ行って突き当るのだ。柳生派ではそれを「無刀」といい、武蔵は「万里一空」といったのである。で武蔵の著した兵法三十五ヵ条を見ても、二刀の利とか用いようなどということは些《いささ》かも書いていない。武蔵をいわゆる二刀つかいと称したのは、後世の浅薄な撃剣屋《げつけんや》がその型の派手を見て、その精神を解さず、技巧だけを伝えたためと思われる。  直木もいっているし、他の剣道史を書く人などもよくいうことだが、あの時代の剣客中で、武蔵には遺墨や遺著もあるので、一番伝記が明瞭であるとはよく聞く言葉であるが、武蔵の生涯は、決してそんなに闡明《せんめい》されていない。篤志な研究が土中の新材料を発掘してくれない限り、到底、彼の生涯にわたる業績とその道念はわれらにはまだ大きな考究の題目である。 [#改ページ] [#2段階大きい文字] 佩刀考   ——「武蔵正宗」と彼の佩刀  大分以前に開かれた文部省の重要美術審査会で、新たに重要美術品に指定された物のうちに、岩倉具栄《いわくらともえ》氏所蔵の「武蔵|正宗《まさむね》」という名刀が挙げられている。  宮本武蔵が愛用した刀だというので、古来から武蔵正宗と呼ばれて来たものだそうである。勿論、相州物で、刀身二尺四寸、幅九分一厘、肉二分というから、実物は見ないが、なかなか業物《わざもの》らしい。  この刀の伝来の説に依ると、享保年間、徳川吉宗が将軍家の勢力をもって、諸国から銘刀を蒐《あつ》めさせたことがあるが、その時、鑑刀家の本阿弥《ほんあみ》に命じて選ばせた逸品の中、第一に位する絶品が、この「武蔵正宗」であったという。  享保銘物帳にも記載されているということであるから、さだめしこの名刀は、吉宗の手にも愛されて、幕府の御刀蔵《おかたなぐら》に伝わって来たものであろうが、それが岩倉家に移ったのは、維新の頃か明治になってから後か、新聞の記事で知ってふとそんなことを考えてみたりした。  文部省で認定したことだから「武蔵正宗」の説をここで問題に取り上げるのではないが、宮本武蔵ほどな男が、日頃どんな刀を身に帯びていたろうかと考えるのは、満ざら、興味のない詮索《せんさく》でもないかと思うので、もう少し話してみよう。  同じ頃、大阪の高島屋で、武蔵の遺墨展覧のあった折、たしか、刀はたった一腰《ひとこし》しか出品されていなかったように思う。それも自分は会場で見ていないので、今出品目録を出してみると、 [#ここから2字下げ] 賜天覧武蔵所持之刀  熊本島田家蔵 [#ここで字下げ終わり]  と、だけあって、作銘寸法などわからない。  天覧を賜わった物とすれば、これも武蔵の愛刀の一つとして、相当な根拠のあるものであろうが、僕の記憶からさがし出すと、この他《ほか》にもまだ武蔵の持っている刀として伝えられているものはかなりある。  八代聞書の記載に依ると、 [#ここから2字下げ] 武蔵ノ常ニ佩《ハ》キシ刀ハ、伯耆安綱ナリシ由、然ルニ熊本ニ来リテ後、沢村友好(大学)ノ世話ニナリタリトテソノ刀ヲ礼トシテ贈リタリ。今モ、ソノ刀沢村家ニ在リ。 武蔵、夫ヨリ後ハ、佩用トシテ、武州鍛冶和泉守兼重ヲ用ヒキ、兼重ハ臨終ノ際、長岡佐渡ノ家ヘ遺物トシテ贈ラレ、脇差ハ遺言ニマカセ、播州ヘ送リ届ケシト云フ。 [#ここで字下げ終わり]  とあって、これで見ると、熊本へ来る以前の遍歴中は伯耆安綱《ほうきやすつな》を差し、死ぬ前の数年間は、武州物の兼重《かねしげ》を帯びていたことになる。その兼重を、武蔵から遺物に送られたという長岡佐渡というのは、細川藩の家老で、今の松井男爵家の先祖である。  孤独だったせいか、武蔵は路傍の子どもを愛し、客を愛し、また老成した者より若い者を欣《よろこ》んだらしい風がある。  春山和尚というと、ひどく老僧らしいが、武蔵の晩年、熊本に落着いていた頃は、まだ春山は三十代ぐらいな若僧であったろう。細川家の菩提寺《ぼだいじ》でありまた帰依《きえ》している大淵和尚が小倉から連れて来た弟子である。武蔵はこの若い禅家のお弟子をひどく愛して、晩年の無二の友達として迎えていた。  よほど心契《しんけい》の友であった証拠には、彼はこの春山へ、死ぬ前に自分の愛刀を一腰、遺物分《かたみわ》けしている。その刀は、後に子飼男爵家の珍襲《ちんしゆう》する所となったが、大和の国宗《くにむね》の作で刀身二尺二寸、裏銘《うらめい》に——大宝二年八月と入っている古刀の逸品で、愛刀家の垂涎《すいぜん》しそうな名作である。  以上の他にも、武蔵が吉岡伝七郎を斬った刀というのが伝わっている。慥《たし》か津村男爵の家蔵だったかと思う。これは鍔先《つばさき》三尺八寸という大太刀で、熊本の武蔵顕彰会本の写真にまで出ているが、その武蔵との縁故や由来はともかくとして、吉岡伝七郎をこれで斬ったという説はすこし牽強附会《けんきようふかい》に過ぎると思う。彼が、伝七郎と試合したのは、二十一歳の若い頃だし、その同年には、例の洛外《らくがい》下り松の辻で、吉岡一門の大勢と暴戦しているのであるから、その刀が、たとえ後に手入れをしたにせよ、満足に残っているわけはない。また、二十一歳から後、晩年熊本へ来て落着くまで、その間の三十何年間というものは、文字どおりな白雲流水の身で、一定の家居も家族も持たず、遊歴から遊歴の修行道に暮している彼であるから、当年の一刀を、晩年まで持っていたとは思われない。もっと強く証拠立てていうならば、武蔵自身もいっていた通り、その遊歴中に、生涯六十幾回の試合をして、生死の中を通って来ているのである。いくら銘刀でも、そうそう無限に実戦に使えるものではない。  こういうふうに文献から漁《あさ》り出せば、武蔵の所持した刀はまだ幾つか挙げることができよう。しかし、いずれが武蔵の最も鍾愛《しようあい》した物か、下り松の試合の折にはどの刀を使用したか、巌流島では何を差していたかなどという問題になると、これはまったくわからない考証になる。  けれど、以上挙げた数点だけでも、おぼろながら彼の愛好の趣は察しることができよう。凡作は佩《は》かなかった。また、古刀を好んだ。それかといって特に刀に奇を衒《てら》ったふうもないし、慶長ばやりの胴田貫《どうたぬき》だとか厚重《あつがさね》だとかいう、いわゆる強刀《ごうとう》や大業刀《おおわざもの》らしい物を用いなかったことがわかる。  柳生流の哲理の窮極は、無刀という、二字で尽きている。武蔵の円明二刀流の極意もまた、彼自身の書いた五輪書の空の巻の最後にいっている通り、兵法に実相と空相の二つあることを説いて、   空ヲ道トシ、道ヲ空ト見ルベキナリ  と、いっている。  また、兵法三十五ヵ条の終りにも、彼は剣の哲理を、   万理一空  という四文字で筆を結んでいる。  万理一空も、柳生流の「無刀」という極致も、要するに真理は一つところへ合致しているわけである。つまり兵法の最高の理想は武も要らないという境地にあるのだった。  二天記や熊本藩の者の云い伝えに依ると、老年になってからの武蔵は、平常、刀は差していなかったそうである。外へ出る時は、五尺ほどな杖を携《たずさ》えていただけだという。自分も、これがほんとの武蔵らしい姿に思われる。  杖とはいうが、しかしただの木杖ではないかも知れない。大和柳生谷の芳徳寺に残っている柳生十兵衛の杖というのは、一見、柳の枝か何かのように、しなやかに見えるが、杖の芯には、細い刃金《はがね》が三本通してあって、その上を、雁皮紙《がんぴし》の紙捻《こより》で実に根気よく巻きしめた物なのである。勿論、杖の先にも、金属がついているから、これを投げれば敵を刺し、これで打たれれば、敵は吐血するであろう。十兵衛流の杖と称して、彼が考案した物だということである。  武蔵の杖にも、のべ[#「のべ」に傍点]鉄《がね》がかくしてあったし、後先には、銅金《どうがね》が付いていた。そして紙捻で作った緒を通して腕貫《うでぬき》としていたそうである。  武蔵が平常、人に話していた言葉には、刀脇差は、木柄《きづか》にて赤銅拵《しやくどうごしら》えがよく、自身の好みは赤胴ならでは思うようにならず、といっていたそうである。これで見ると、彼の刀は、元禄以降の文化的な侍が差していたような、派手な拵《こしら》えでは決してなかった。  彼がまだ壮年の頃、大坂にあって、或る夜町の辻へかかると、突然、物もいわずに斬りつけた男があった。腕を抑えて武蔵が一喝《いつかつ》叱りつけると、男は意気地なく悲鳴をあげて、詫びぬいた。  見ると、その男の手にある新刀は、なかなか業刀《わざもの》らしいので、武蔵が、詰問《きつもん》すると、男は、これは自分の鍛《う》った刀で、実は、あなたの体を借りて、自身で鍛ったこの刀の切れ味を試してみようとしたのですと、不心得を謝して云った。  素姓を聞くと、下総国の縄手《なわて》の住人で河内守《かわちのかみ》永国《ながくに》という者だという。そこで武蔵は、自分の宿へ連れてゆき、なお、燈の下で篤《とく》とこの男の作品を見ると、凡作でないので、それ以来、何かと目をかけていたという話がある。  後に武蔵が、細川家の客分となって熊本に落着くと、この永国も彼の後を慕って、熊本へ移住して来た。そして武蔵の推挙に依って、それから永国は三十人|扶持《ぶち》で細川家に抱えられ、代々、藩の刀鍛冶《かたなかじ》として、城下の高田原楠町に住んでいたそうである。  こういう話の残っているのをみても、武蔵が鑑刀《かんとう》にも一見識を持っていたことが分るし、殊に刀剣は身につける物のうちの何物よりも、愛しもしたろうし、潔癖にそれを選んで私用としたに違いない。  有名な彼の「独行道」の言葉のうちにも、彼は、物事に好きこのむ事なし、とかまた、美宅古道具などを所持せず、とかいう箇条を挙げて、自分で贅沢《ぜいたく》を誡《いまし》めているが、刀だけはべつとみえて、その一ヵ条に、   兵具は格別、余の道具たしなまず  と、わざわざ云い訳のように書き添えている。  武蔵が刀に優《すぐ》れた名作を求めるのは、むしろ当然なたしなみといえるのに、こう断っている所など見ると、よほど刀は好きだったらしいと想像されて、何となく微笑まれる。  こう想像して来ると、重要美術に指定された一点もまた、従来諸方から武蔵の遺品として出ている数々の刀も、それぞれ何らかの由緒《ゆいしよ》があって、武蔵の生涯のうちに、たとえ三年か四年の或る間だけでも、彼の手に愛された品であろうと思われる。また、刀だけは、自分で鍛ったことはないらしいが、鍔《つば》とか目貫とか、小柄《こづか》の鞘《さや》とかいう小さい物は、自分でも製作したほどな武蔵であるから、なおさら、衣食や住居には至って無造作でも、佳《よ》い刀となると欲しくなって、遊歴中にも、随所随時に、差料を求めたり、換えたりしたにちがいないから、まだこれ以上、武蔵所持の刀と名乗る物があらわれても、少しもふしぎではない。  けれどただ、それが一片の口碑《こうひ》や伝来の権威だけで、もっと明白な史的文書の伴っていないことが慾をいえば少し心ぼそい気もする。 [#改ページ] [#2段階大きい文字] 沢庵と細川忠利  沢庵和尚《たくあんおしよう》についてよく訊《き》かれるので、こういう一文を草してみた。沢庵を知ろうとするならば、細川|護立《もりたつ》侯などの後援で版行された「沢庵全集」が完璧なものである。けれど、人が僕に糺《ただ》すのは、僕が小説中に、武蔵と沢庵とのことを書いているためにほかならない。しかし、武蔵と沢庵との交渉は、まったく僕の創作で文献では決してない。前項にもそのことはいってある通りである。  しかし、そういう構成上の想像といっても、まったくいわれなき空想の上に建てたものでも決してないのである。沢庵が禅林中の人でも最も武道に関心のあったことは周知のことであるが、その関係は、文書の上では、柳生家との関係のことしか分っていない。果たしてそうだろうか。  いつか土岐《とき》子爵がわざわざ来訪されて、僕にはなしてくれたことには、土岐家には沢庵が出羽に流寓中に書いたものらしい槍術の書が伝わっているとのことであった。従来、沢庵の書いた兵書としては、柳生但馬守のためにかいて与えたという不動智神妙録、太阿記《たいあき》の二書とのみ思われていたのが、槍術の書までかいていたとすると、沢庵と武道との関係は、もちっと、広範囲に考えてもいいことになる。  といって、その程度で、武蔵とも何らかの関係があったろうと想像するのは、まだ宥《ゆる》されまいが、彼の生地が、但馬《たじま》の出石《いずし》であり、武蔵の郷土が、美作《みまさか》の吉野郷で、当時、出石方面から山陽方面へ往来するには、山ひとえの道を、但馬から美作に出て、その頃の竹山城の城下では、一宿の地であったことなど思い合すと、郷土的には両者は甚だ接近してくる。  それに武蔵と沢庵とは、年齢もかなり近い。沢庵のほうがわずか十歳か十一歳の年長者であった。また、武者修行者と禅門との関係も密である。禅刹《ぜんさつ》は武者修行する者にとって唯一といっていい心的道場であり、宿舎でもあった。  なお、別方面から、もっと普遍してゆくと、沢庵と細川|忠利《ただとし》、沢庵と長岡佐渡などとの心交はかなり顕著である。その長岡佐渡とは、武蔵はすでに巌流島の試合当時から知己であった(長岡佐渡宛、慶長十七年四月十二日附の武蔵書簡に見える)。細川忠利と武蔵とは、これはいうまでもない君臣に近い間がらである。  そういう方から窺《うかが》ってみるのも、沢庵の一面を知る上で、面白かろうと思われ、これには僕の想像は除いて、単に、細川忠利と沢庵との関係のみを記述してみた。沢庵全集中には、沢庵から長岡佐渡へ送った詩など幾つも散見されるが、そこにまでわたっては余りに広範囲になるので両者の交渉だけを中心としておくことにする。  紫衣褫奪《しいちだつ》事件に連坐して、流謫《るたく》の四星霜を出羽|上《かみ》ノ山《やま》に過した沢庵は、寛永九年七月に赦《ゆる》されて江戸の土を踏んだ。 [#ここから3字下げ]  紫衣褫奪事件とは、——嚮《さき》に家康は、京都の大徳、妙心両寺に厳命して幕閣の裁可を経ずして猥《みだ》りに出世し、紫衣を用いることを堅く禁じた。(元和御法度書——元和元年)  しかし、家康が薨《こう》じてのちは、この禁令も何時しか忘却されて、勅許を奉じて出世する者が尠《すくな》くなかった。そこで、幕府は、寛永四年、京都所司代|板倉周防守重宗《いたくらすおうのかみしげむね》をして、元和御法度書以後の出世にかかる者は、器量吟味の上、紫衣を褫奪《ちだつ》する旨を布達せしめた。  ところがその翌年、大徳寺において玉室《ぎよくしつ》の法嗣正隠《ほうしせいいん》を出世せしめたので、幕府は厳重その非違を譴責《けんせき》した。  大徳寺の諸老は極度に狼狽して、如何に申し開くべきかに迷ったが、沢庵はこれを見兼ねて自ら筆を採《と》り、玉室、江月、沢庵の連署を以って、此の度の出世は寺法先規に従ったまでで、決して違法には非ざる所以の返答書を認《したた》めて、幕府に呈した。  これが益※[#二の字点、unicode303b]当局の忌諱《きき》に触れるところとなり、三僧を江戸に下して問責し、遂に沢庵を出羽上ノ山へ、玉室を奥州棚倉へ流刑に処した。時に寛永六年七月、沢庵は五十七歳であった。 [#ここで字下げ終わり]  当時、沢庵の学識道徳に傾倒する大名は尠《すくな》くなかったが、特に熱烈だったのは、細川越中守|忠利《ただとし》と、柳生但馬守|宗矩《むねのり》であった。  柳生但馬が沢庵に参禅したのは、かなり早くからであったらしい。一説に、関ケ原以前と伝わっている。  沢庵は赦免の後、|屡※[#二の字点、unicode303b]《しばしば》柳営《りゆうえい》に上って家光の法問に答え、恩寵年と共に厚きを加えて、遂に命に依って品川東海寺の開山第一世となっているが、最初、沢庵を将軍に推挙したのは柳生但馬だったといわれている。  家光は但馬について剣法を修め、技法においてはかなり会得《えとく》するところがあったが、遂に、最後の一線に至っては、但馬に追随し難いものがあった。  そこで、その一線を如何にして超ゆべきやとの問いに対して、但馬は、剣禅一致の妙境に悟入し得て、初めて剣の奥義が把握せられると答え、沢庵に道を聴くべきを奨《すす》めたのである。 [#ここから3字下げ] ——沢庵は但馬のために、「不動智神妙録」一巻を作って、剣禅の関係を説き示した。 また、「太阿記」も剣道を仮りて禅を説いたものだが、これも同じく但馬のために作ったといわれている。 [#ここで字下げ終わり]  沢庵と細川越中守忠利との道縁は、さらに深いものがあった。それは、祖父幽斎、父三斎、子光尚と、実に細川家四代にわたる友情の帰依の歴史だったのである。  戦国の焦土《しようど》から、徳川覇府の建設へと、政治的な幾変転が繰り返される間にも、文化の炬火《きよか》は、煌々《こうこう》と絶ゆることなく燃やし続けられたが、その文化|圏《けん》の最も輝かしい光芒は、幽斎細川|藤孝《ふじたか》、三藐院《さんみやくいん》近衛|信尹《のぶただ》、烏丸大納言光広、本阿弥光悦《ほんあみこうえつ》、松花堂|昭乗《しようじよう》等であった。そして、宗門の傑物沢庵が、これらの知識人の精神的支柱として重きをなしたことは、いうまでもあるまい。  幽斎と沢庵との交渉は、文献の上では、慶長七年、沢庵が三十歳の頃に始まっている。当時の沢庵は、未来の鋒鋩《ほうぼう》を蔵しつつ、まだ泉州堺|大安寺《だいあんじ》の文西西堂について、学徳の切磋《せつさ》に孜々《しし》たる頃であった。 [#ここから3字下げ] (彼が法業の功を認められて、沢庵の号を授けられたのは、それより二年後の慶長九年である) [#ここで字下げ終わり]  また、細川幽斎は、齢《よわい》七十に垂《なんな》んとして、知識人中の最長老であった。従って、この二人に関する限りは、沢庵が、教えられ、導かれる側に在ったといっても間違いはあるまい。  この頃、沢庵が和歌百首を詠じて批判を乞い、幽斎は深くこれを賞したと伝えられているが、単に和歌ばかりでなく、当代最高の文化人である幽斎から、この好学な青年僧は、あらゆる知識を吸収し、生長を助けられる処が多かったもののようである。  幽斎の子三斎|忠興《ただおき》との友情も、当然この頃に結ばれていなければならない。  細川忠興は、父幽斎に比べると、武将的性格の濃い人物であったが、さりとて、武辺一辺では決してなかった。学を藤原|惺窩《せいか》の門に受け、和歌、点茶、有職故実《ゆうそくこじつ》の類いも、充分父の衣鉢《いはつ》を継ぎ得ていたのである。  さらに三斎について注目すべきは、彼が徳川の傘下《さんか》に在《あ》りながら、幕府の不遜《ふそん》な対朝廷策に、大きな忿懣《ふんまん》を抱いていたことである。  紫衣褫奪《しいちだつ》事件にひそむ幕府の真意は、朝権《ちようけん》を否定して、あらゆる政治的威力を、己《おの》が掌中に壟断《ろうだん》せんとするに在った。沢庵の流罪は、この意味で公武抗争のひとつの犠牲だったわけである。  三斎は忠利に一書を飛ばして、 [#ここから2字下げ] 京にて禁中向の儀承候。主上之御事不及申、公家衆も事と外物のきたる躰と申。主上御不足の一つには、公家中官位御まゝに不成との事、または御料所増加にて被遣金銀も折々《をりをり》被遣候へ共、是も毛頭御まゝに不成候。 [#ここで字下げ終わり]  と、皇室の式微《しきび》を嘆き、 [#ここから2字下げ] 又、大徳妙真寺長老不届也と武家より被仰《あふせられ》或は衣をはがれ、また被成御流候《おながしになられさふら》へば、口宣《くせん》一度に七八十枚もやぶれ候。 [#ここで字下げ終わり]  と、紫衣事件に対する武家の横道《おうどう》を怒っている。そして、沢庵が、この事件の最大の犠牲者だったことが、純情な忠興の怒りを一層刺戟したことは想像に難くない。  これより先、慶長十五年に幽斎が七十七歳の高齢で歿した時も、三斎は先考《せんこう》のために一寺を豊前《ぶぜん》に建立して、沢庵に住持たらんことを懇請している。尤もこれは、沢庵の都合で実現は見なかったが。  晩年の沢庵と三斎は、春花秋草に風流を談じて、交情愈※[#二の字点、unicode303b]馥郁《ふくいく》たるものがあった。  或る時、沢庵は三斎から蓮花を贈られて、 [#ここから2字下げ] うきなからあはれことしの花もみつ これも蓮《はちす》のいけるかひかな [#ここで字下げ終わり]  と詠《よ》んだ。生き永らえと、さらに麗しい友情につながる喜びが、沢庵の老いの胸を暖くするのである。  三斎の屋敷の花苑《はなぞの》には、四季折々の百花が嬋娟《せんけん》と乱れ咲いた。花好きな沢庵——彼は殊に、清冽な梅花を愛した——は、花信を得るごとにこの老友を訪れて、共に苦茗《くめい》を啜《すす》り、尽きざる閑談に時を忘れた。 [#ここから2字下げ] こころをば花あるやどにとめられて 身こそはかへれ紫の庵 [#ここで字下げ終わり]  草庵に帰った沢庵は、一日の和楽をしみじみと反芻《はんすう》しつつ、こう詠ずるのであった。  三斎は沢庵より九つ年長であった。従って道の上では、勿論沢庵に満腔の敬意を払っていたに違いないが、交誼の関係からは、幽斎の子として、また、年長の心友として、むしろ沢庵が、一歩|遜《へ》り下《くだ》った態度を採っていたのではないかと思う。  そして忠利に至って、祖父が宗門の麒麟児《きりんじ》として愛し、父が心友として相許す沢庵に、道の師として畢生《ひつせい》の敬慕を捧げたのは当然というべきである。  武器に依って権威と名誉を獲た諸大名も、天下の静謐《せいひつ》と共に、政治家としての人間完成に心を致さないわけには行かなかった。そして、この要求に心強く応えたのが、禅僧沢庵の道力であった。  沢庵の門を熱心に叩いた諸侯としては、先に述べた柳生但馬の他、酒井忠勝、堀田|正盛《まさもり》、板倉|周防《すおう》、小堀遠州、佐久間|将監《しようげん》等が著名であるが、沢庵が最も愛したのは、細川家の卓抜な嫡孫、越中守忠利であった。  忠利は、父祖二代の文武を享《う》け継いで、元和寛永期の諸侯中、最も出色の人物である。  忠利の歿後、沢庵は彼を追懐して、 [#ここから2字下げ] 胸襟雪月、心裡清泉、好事風流、出二其群一抜二其萃一、有徳気象、仰弥高鑽弥堅 [#ここで字下げ終わり]  と、最大級にその高風を讃えている。また、その肖像に、 [#ここから2字下げ] 公与レ余講交異レ他 [#ここで字下げ終わり]  と賛《さん》しているのを見ても、両者の間に、如何に深い道契《どうけい》があったかが分ると思う。  沢庵と忠利の親交は、幽斎、三斎を介して、若くして始まっていたに相違ないが、特に密度を加えたのは、やはり寛永九年以降であったろう。  赦免後の沢庵の在府期間を見るに——  最初は、江戸に帰った寛永九年七月から十一年五月まで。  次は、十二年十二月から十三年十月まで。  次は、十四年四月から十五年四月まで。  そして、十六年四月からは、江戸に常住している。  忠利は、九年十月に小倉から熊本へ移されて帰封したが、その在府期間は——  十年十月に参覲《さんきん》して十三年五月まで。  次は、十四年三月から十五年一月まで。  最後は、十六年三月から十七年五月まで。  と、両者はほとんど同時期に、江戸に滞在しているのである。勢い、その交渉は深くならざるを得ない。  富貴栄達を厭《いと》う沢庵は、江戸に下って、柳営の一顕僧となるのを余り好まなかったらしい。但馬の故里《ふるさと》に、簡素な草廬《そうろ》を結んで、静かに風月を友としたかったのである。  寛永十二年の末、将軍の命に依って已むを得ず江戸に出ることになったが、参府前、但馬国主|小出吉英《こいでよしひで》に宛てた書面に、 [#ここから2字下げ] 近日江戸へ不被下候而不叶候故迷惑仕候 [#ここで字下げ終わり]  と述べ、また、同人宛の別の書面に、 [#ここから2字下げ] 罷出《まかりいで》候はゞ、奇特御座候とも、余命|無御座候《ござなくさふらふ》。まして我等|躰《てい》之者罷出、何之奇特も御座|有間敷候得《あるまじくさふらへ》は、罷出|無詮義《せんなきぎ》と存候。当世は有様《ありやう》正直を申《まをし》て、用に立申儀《たてまをすぎ》にて無御座候。まげ度程まげ申せは、それには光さし申世にて候間、中々我等躰之者|罷出《まかりいで》、世に逢申儀にて無御座候、世にあわせ申《まをし》ても、はや無余候間、今日/\と存、死をまつばかりにて御座候。杖と草履《ざうり》とを、我と手に取て、縁之下屋に置申、罷出時《まかりいづるとき》取出し、我とはき申て出入仕候位にて、中々今日之世上不相成候。又|可然《しかるべき》様子|可仕《つかまつるべし》と存候へは、世をまけ不申候へは、成不申とて、僧は山林樹下《さんりんじゆか》の者にて候に、官家之人も重宝からぬ口さし出申候から、恥をあく程かき申と存入候。此心にては、我なから公界之成事にては無御座候。思召《おぼしめし》やられ候て可被下《くださるべく》候。 [#ここで字下げ終わり]  といって、権門に媚《こ》びる徒輩の滔々《とうとう》として横行する澆季《ぎようき》を歎じているが、一箪《いつたん》の食《し》一瓢《いつぴよう》の飲に満ち足りる沢庵にとって、公界は或いは苦界と見えたかも知れない。 [#ここから3字下げ] (沢庵が将軍家に奉仕するのを厭《いと》った最大の理由は、やはり紫衣事件に対する不満であったろう。この事件は、前にも述べたように、朝幕抗争の一所産であったが、事件の口火を切ったのは、金地院崇伝《こんちいんすうでん》だったといわれているのを見ても分るように、その裏面には、大徳妙心寺対鎌倉五山の反目が有力に動いていたのである。 「僧は山林樹下の者にて候に、官家之人も重宝からぬ口さし出申候から……云々」 の一節の如きは、明かに、幕政を利用して宗門上の私意を遂げた、崇伝等に対する沢庵の皮肉である) [#ここで字下げ終わり]  しかし、家光の再三の召しに依って出廬《しゆつろ》した沢庵は、己れの存在の時代的意義をはっきり認識して、建設期の文化面に、大きな役割を演じたのである。  例えば、柳生但馬に見られる剣術の精神的深化や、細川忠利の如き名君的政治家の出現は、沢庵の存在を無視しては考えることは出来ないのである。  江戸の沢庵の生活を、物心両面で豊かにしたものは、若き友|忠利《ただとし》であった。  沢庵は、花と並んで茶が好きであったらしく、機会あるごとに忠利から贈られる茶を、千金の宝の如く珍重している。また、季節の果物や国々の名産など、沢庵のわずかな欲望を驚かす数々の贈り物が、絶えず忠利から届けられた。  これらの好意に対する沢庵の喜びと感謝の表情は、忠利に宛てた書面の随所に見られるのである。 [#ここから2字下げ] 従是《これより》可申入之処、遮而《かへつて》尊書御報に罷成候。如仰《おほせのごとく》昨日者《きのふは》、さはりなく終日|申承《まをしうけたまはり》、本望此事に候。短日之故|惜暮計候《くれををしむばかりにさふらひ》つ。近日以参可申入候条、抛筆候、 [#ここで字下げ終わり]  一日の短きを惜しみつつ、風流の話、治民の話、武道の話など、それからそれへと語り暮したのであろう。中にも、話題の中心は、やはり道についてであった。忠利は真摯《しんし》な求道者として沢庵の高示を仰ぎ、沢庵もまた、忠利を教え導くにあらゆる努力を吝《お》しまなかった。 [#ここから2字下げ] 御礼存。先頃者《さきごろは》忠庵迄、乍恐伝語申候つる。御帰国前には、必一日|可申承《まをしうけたまはるべく》候。於御尋者《おたづねにおいては》、可為本望《ほんまうたるべく》候。一冊静に可被成御覧《ごらんなさるべく》候。御合点不参所候はゝ、貴面に又々可申入候也。 [#ここで字下げ終わり]  諄々《じゆんじゆん》たる沢庵のさまを見るべく、孜々《しし》たる忠利のさま見るべし、である。  二人はまた能楽に一日の歓を尽すこともあった。 [#ここから2字下げ] 追而申候。昨日之松風、近比《ちかごろ》見不申候|面白能《おもしろきのう》にて候。松のむかふをまはりてとをられ候様子ともは、わさをきに持て仕候者の可成様子にてはなく候。つねに道なとわけてとをり候に、松の枝のさかり候を、をしのけてとをり候様もてあまさぬ見かけにて候つる。松風之時は、但馬殿も我なから我をわすれられ候|哉《や》、さて上手かなと被申《まをされ》候つる、藤永、朝長、何《いづ》れも/\出来申候、不存《ぞんぜず》候者之《さふらふものの》目に、さあるべきやうに見申《みまをす》かよき上手と申候間、我等こときの目に能《よく》見へ候か上手たるへきと存事《ぞんずること》に候、 [#ここで字下げ終わり]  忠利の「松風《まつかぜ》」の出来栄えを賞歎した手翰《しゆかん》であるが、師弟和楽の状が、紙面に躍如《やくじよ》と溢れている。  忠利は寛永十四年頃から、ようやく薬餌《やくじ》に親しむことが多くなった。この年の十一月には、鎌倉に転居して病を養っている。  本草医学に明るい沢庵は、薬や養生法の注意を与えたり、力づけたりした。 [#ここから3字下げ] (この方面の沢庵の著作としては「医説」「骨董録《こつとうろく》」「旅枕」それぞれ一巻がある) [#ここで字下げ終わり]  その結果、幸いにして回復に近づいたが、この時勃発したのが、九州の切支丹一揆《きりしたんいつき》であった。そして、忠利の健康が完全に立ち直っていなかったためであろう。その子|光尚《みつなお》が、爆発と同時に急遽《きゆうきよ》島原に下った。 [#ここから3字下げ] (忠利の長子六丸は、寛永十二年七月、従四位下侍従に任ぜられ、家光の一字を与えられて、光尚と称した) [#ここで字下げ終わり]  暴徒の勢いは意外に熾《はげ》しく、かつ、板倉|内膳正重昌《ないぜんのしようしげまさ》討死のことなどがあったので、忠利は翌十五年正月、自ら島原に出陣した。そして、忠利着陣後一ヵ月にして乱は鎮まったが、この布陣に依って再び病いを発し、その後一年は国許に病臥の生活を送ったのである。  その間、沢庵もまた、大徳寺開山|大燈国師《だいとうこくし》三百年忌のため上洛《じようらく》を許され、或いは郷国但馬に入湯したりして、たまさかの消息が交わされるに過ぎなかったが、十六年四月に至って、両者は殆ど時期を同《おなじ》うして江戸に入った。  かくして、この師弟の間に、再び愛慕の一年が流れ、十七年五月に、忠利は参覲《さんきん》の期終って熊本に帰ったが、計らずもこれが永別となったのである。  忠利は五月十八日江戸を発ったが、その時沢庵は、あたかも熱海入湯中であった。病いがちな老体を省《かえりみ》る時、沢庵は生き永らえて再び忠利に相会う日がないのではないか、という危惧《きぐ》に捉《とら》えられた。  そこで彼は、忠利が小田原に着く頃を見計らって箱根の湯本に出向き、或いは最後になるかも知れぬ物語りに、暇乞いの一夜を明かそうとしたのである。しかし沢庵のこの計画も、悪天候と出水に阻《はば》まれて、ただ千万無量の恨みを残した。 [#ここから2字下げ] 天気故此度不懸御目候事、千万々々御残多存候。来年御参覲之|時分程《じぶんもほど》御座有間敷《ござあるまじく》候へ共老々殊相煩申候故、重而《かさねて》可懸御目儀、於我等者《われらにおいては》不定之事候、致存命。重而今一度懸御目度存計候。 [#ここで字下げ終わり]  老少不定、沢庵は再び廻り来たる春の花を眺めることが出来たが、忠利は参覲の日をも俟《ま》たで、寛永十八年三月十七日、五十六歳を以って熊本に病歿した。  再会の望みも空しく、若き友忠利を失った沢庵の落莫《らくばく》は、想像に余りがある。彼は小出吉英に宛てて、 [#ここから2字下げ] 細川越中殿|不慮《ふりよ》之御事、さても——無常変転、今《いまに》不始事《はじまらざること》ながら、今程昔語に被為成候《なされさふら》はんとは、誰も難思事共に候。 [#ここで字下げ終わり]  と浩歎《こうたん》した。また、後嗣《こうし》光尚に宛てた書面にも、 [#ここから2字下げ] 愚老事者。近年他にことなる御したしみにて候故、今もまことしからす、御国に御座候て、不日に御参府も候様におもはれ、さても/\と俄に又|驚様《おどろくさま》にて、独手《ひとり》を打事まてにて候。 [#ここで字下げ終わり]  とあって、忠利の死が、俄《にわか》には信ぜられなかったのである。仏者の迷いだけに、現実に還《かえ》った瞬間の沢庵の気持は、一層切実なるものがあったであろう。  細川越中守忠利法名を妙解院台雲五公居士と号す。  沢庵は秉炬《へいきよ》の語を作って、 [#ここから2字下げ] 夢回五十有余年。一枕春風胡蝶前。四海九州|無レ処レ覓《もとむところなし》。 離《つるを》レ弦《はなれて》聖箭過二西天一。 [#ここで字下げ終わり]  とその急逝を嘆じた。  正保元年、光尚は忠利のために護国山妙解寺を熊本城外に草創し、沢庵を聘《へい》して開堂供養を営もうとしたが、沢庵はこれより先、寛永十六年に品川の東海寺に入っていたので、同門の耆宿啓室座元を代らしめて住持《じゆうじ》となし、亡き道友の冥福を祈らせた。 [#改ページ] [#2段階大きい文字] 柳生の剣法・武蔵の剣法  十兵衛の直筆本《じきひつぼん》の「武蔵野」という書を近頃見たが、それを見ると書は立派である。仮名など女性の書体みたいに優雅である。その本は半紙百枚ほどの綴本で、大和《やまと》の柳生村にある柾木坂文庫《まさきざかぶんこ》の所蔵本であるが、何かの参考になればといって、同所の柳生家|菩提寺《ぼだいじ》の橋本|定芳師《ていほうし》が上京の節、持参して来て、私に見せてくれたものである。  題簽《だいせん》は十兵衛の自筆でないが、最初の一枚の自序を見ると、 [#ここから2字下げ] 慶安二年己丑七月朔日   菅原三厳《すがわらみつよし》 むさし野に 折りべい花は えらあれど 露ほくて 折られない =笑はしきたとへ物語りながら、ひそかに心にかなひ侍《はべ》り此書を武蔵野と号 [#ここで字下げ終わり]  と、誌して、当時の江戸で唄われていたらしい俗歌から題名を取ったわけを誌している。内容は、柳生流三学から説いて、自己の見解と、剣禅の境地を、口語体交じりに書いているのであるが、大祖父の石舟斎のことを、おじいがこういった、また父の但馬守のことばを、チチがいうには、などと書いているところが、もう晩年に書いた物であるが、父祖に対する心持が現れていておもしろい。  結論の終りの章には、 [#ここから2字下げ] =父母懐胎の時、チヤツト一滴ノツユヲウケテヨリ、ハヤ身モ心モ生ズルモノヨ、タトヘバ袖ノ上ニツユガアレバ月ノウツリ、草ノウヘニモツユガアレバ月ノウツル如クヨ [#ここで字下げ終わり]  と書いたり、また、 [#ここから2字下げ] =月白風清、コンポンニ至ツテハ、ナンニモナイトイフ処ガ面白ヨ、ナンノ道理モナキナリ [#ここで字下げ終わり]  で、結んでいる。  それから十兵衛の自作の歌に——「なか/\に人ざと近くなりにけりあまりに山の奥をたづねて」という一首がある。  古来剣道の名人上手といわれる人々には皆、その人の詠んだという極意の歌というのが、いくらもあるが、私は、十兵衛のその歌と、武蔵が自分の肖像画のうえに自題した歌——「理もわけも尽して後は月明を知らぬむかしの無一物なり」が、最も意味が深いし、歌としても優れているようで好きである。 [#改ページ] [#2段階大きい文字] 遺跡紀行 [#改ページ] [#2段階大きい文字] 京都一乗寺下り松   ——武蔵と吉岡決戦の跡  京都ほど分りよい町はおへんになあ、と京都の人はよう云わはるけれど、なんど行っても、僕には京都ほど勝手の知れない土地はない。もっともまた、いつ行っても、宿は都ホテルか中村屋か、でなければ堂本印象氏《どうもといんしようし》のまん前にある近糸という家にきまっているようなものだし、会う人々も歩く場所も、べつに決めているわけではないが、おのずからいつも範囲を出ないのである。結局京都が分り難《にく》いという方がわるいので、僕がまだ京都をまるで知らないのであるかもしれない。  それを愍然《びんぜん》に思ってくれたのか、曾根《そね》の星ケ岡茶寮のN君が、一日、自家用車でやって来て、きょうは京都をお見せしてあげましょうという。  N君は、東京の星ケ岡茶寮の主人公でもあるし知己になったのもそこなので、もちろん東京人と思っていた所が、わたくしはこれでも生ッ粋の京都人ですよと誇ってわらう。まさか今さら祇園《ぎおん》や銀閣寺へひっ張り廻しはしませんから安心していらっしゃいともいうのだ。こちらも信頼しないわけでは万々ない。だが生憎《あいにく》、その日自分はぜひ行きたいべつな目的を持っていたのである。今新聞に書きかけている宮本武蔵の遺跡の一つを尋ねてみようという肚なのだ。その宿題を持ってからでも、京都へは三、四度も出かけていたが、いつもいつも前に云ったとおり、蝸牛《かたつむり》が盥《たらい》のふち[#「ふち」に傍点]を歩いているような旅行ばかりして帰ってしまうので、実はこんどこそ密《ひそ》かに誓っていたことでもあるし、かたがた紙上で日々すすんでいる小説の宮本武蔵が、もうやがて近いうちに、その遺跡をテーマで踏みにかかる日も迫っていたので、そこを書く要意のためにも、これは遊びではなく仕事である、何は措《お》いても今日は行ってみようと思い立っていた矢さきでもあった。  問題は、小説でそこを書く前に、武蔵が吉岡家の者と最後の死闘をやった場所の地理を、くわしく頭に入れておきたいということにある。武蔵が最初に吉岡清十郎と試合した場所は、洛北蓮台寺野《らくほくれんだいじの》と明白にわかっているが、二度目に、弟の伝七郎を仆した場所は事実となると明瞭でない。それから三度目が最後の決戦であって、吉岡家は門下の百数十名を総出動して、独りの武蔵を、必殺的な陣形のうちへ誘っておいて、かえって彼のために惨たる敗れをとったことになっているのだが——これは小説として書くにしても、試合というよりはむしろ戦争である。おたがいに策も秘し、地の理も考え、弓矢などの飛道具も備え、その他あらゆる兵法の知識を加味した争闘であるから、私はこれを、従来どおりな単なる試合の型に書いてしまいたくない。  そこでどうしても、地理を知っておくというような予備知識も、重大な要意の一つになってくる。それにまた、うまく遺跡を探し当てれば、思いがけない他の発見もあるかもしれないなどという興味も手つだう。  で、私の尋ねあててみたいというその遺跡の地は一体どこかというと、二天記や小倉碑文などにも、わずか一行にも足らない文字であるが、一致している所をみると、かなり信頼してよい史証だと思う。だが、それも実地を踏んでみなければまだ断言しきれないような気持も幾分かあったが、とにかくその二天記や小倉碑文の記事をほんととすれば、   京洛東北ノ地、一乗寺藪ノ郷下リ   松ニ会シテ闘フ  とあるのである。  私の目的を聞くとN君は、そんなことなら何も厄介にして煩《わずら》う要はちっともない。これからわたくしが鷹ケ峰の光悦寺から真珠庵《しんじゆあん》などを案内するから、その帰り路にお廻りになればよろしい。わたくしもそれからすぐ八瀬の方へ用事があるから、途中でおわかれするから猶ちょうどよい。  光悦寺と聞いたので、私はすぐ連れて行ってもらう気になった。光悦《こうえつ》と武蔵との関聯を小説の上に構想していた折も折という気もちが利己的にうごいたからであった。S君も行きましょうとすすめ、Y君も行こうと云いだして急《せ》きたてる。N君は、京都を知らない私に、光悦芸術や真珠庵や遠州の独創的な京都文化の一面を案内してくれるつもりだったが、この日の僕の下心が、すでに武蔵の史料を拾うことだの小説の構想にばかり傾いていたので、自動車が町中を走り出していると間もなく、 「そうそう、あなたに会ったら訊《き》こうと思っていたことですが、本阿弥《ほんあみ》光悦が鷹ケ峰へ移る前に住んでいた家のあったという本阿弥の辻というのは一体どこですか、何という町にあるのですか、今でもその名称が残っているのでしょうか」  これは実際何を調べても曖昧《あいまい》なので、さし当って光悦の家のところを書くのにも、自分の弱っていた疑問だったので、さっそく、こう訊いてみたわけだった。 「さあ?」  と、N君は考えてから、 「丸太町辺ということは誰かに聞きましたが、それもよく分っていないようですね、鷹ケ峰へ移住してから後のことは、光悦についてもいろいろはっきり知れているようですが」  純粋の京都人という人がこういうのだから、これは断念しなければなるまいかとその時は思った。それと共に、また前言を覆《くつがえ》すようだが、つい何時もの呟きが胸の中でこう強情を張った。——やっぱり何度来てみても京都ほど分り難い所はないんだ。  光悦の住居の問題は、その後、知恩院のIさんがわざわざ送ってくれた「京都坊目誌《きようとぼうもくし》」でやや適確にわかった。Iさんは親切に、その記載のある坊目誌の二百九ページを三角に折ってまで、私に教えてよこした。京都みたいに分りよい土地を分り難いという男だから、これくらいにしてやらないといけないと思ったのかも知れない。  だが、それを一読すると、いよいよ京都はややっこしい土地だという立証になる。それは京都の市制や地区行政がわるいのではなく、遠く武家争覇の頃から、応仁の乱や戦国を演じて来た主演者の兵火が禍いなのである。どこにだって日本中に、ここの地上ほど興亡治乱の駈去《かけさ》った所はあるまい。だから坊目誌の中に、   本阿弥光悦ノ宅趾   実相院町東南部ニアリ  と明記してあっても、別の項でその実相院町なるものを考究すると——五辻通り小川西入《おがわにしい》る所より堀河東入るまで——などとあって、おまけにその下にまた丁寧に——及び——と付け足してあって、   及ビ、水落寺《みずおちでら》ト堀川ノ   間五辻上ル所狼ノ辻ト   字ス。——又白峰宮ノ   東横ヲ本阿弥ノ辻子ト   字ス  これで見ると、本阿弥の辻は、白峰宮の辻という別名もあったらしい。何しろとても文字だけでは指さすことは至難である。そこで念入りに寛延版の京師内外絵図と、宝暦版の中京絵図とをくらべてみると、そのどっちにも、本阿弥の辻などという地名はない。字《あざな》だから記載してないのではなく、その付近の狼《おおかみ》の辻子とか、何辻とかいう俗称の地名も載っているのにこの地名はないのである。そして京都はよく、寺院名や公卿《くげ》やしきの館名《やかためい》などを町名にするので、それが廃されては民家に変り、兵火や震災や種々な流転が地上の相《すがた》を移すので、従って、現今の近代都市になっては、よけいに僕らには分らないものになってしまっている。  辻の話で、話もすこし横道のかたちである。私の目的は、今でも一乗寺村に下り松などという地名が残っているかどうか、残っていたら、武蔵が一生涯のうちでいちばん悪戦苦闘したであろう古戦場をつぶさに頭へ入れて帰りたい。そういう先の的《あ》てがどことなく心を急がしているので、せっかくN君の東道に立ってくれた鷹ケ峰の門前町の跡も、光悦寺から見た光悦蒔絵そのままな野趣も、鷹ケ峰だけにできて他にはできない、日本一の蕎麦《そば》の薬味用になるのだというチリフキ大根の話も、真珠庵の落着きも、用達しにでも来たようにそこそこに通ってしまい、白河辺でわかれて、それから先、私とT君とだけで、目的の一乗寺を探しに行った。  往来でひろった車の運転手に、下り松という所があるかと聞くと、知りませんという出鼻のわるい返辞である。じゃあ、一乗寺村はと訊くと、こちらで村と云ったのを訂正して、一乗寺町ならありますという。  おやおや、そこはそれではもう町中になっているのかと思って、こちらは盲のお客、運転手にまかせていると、その運転手の一乗寺町といったのもどうやら怪しいのである。一乗寺修学院町という文字が何かで目についたし、一乗寺|釈迦堂《しやかどう》町とかいてある看板も見るのだった。 「こんなほうか、君」 「ええ、こんな方です」  ひどくのみ込んでいる運転手なので安心はしていた。ところがどうやら近くなって来たのは叡山《えいざん》なのだ。かんじんな彼のいわゆる「町」なんていうものは、遥かうしろに、田園を綴った長閑《のどか》な工場街として遠く見えているだけで、僕らがまごつき、初めて自動車を降りた所などには、町のかけら[#「かけら」に傍点]も見当りはしない。  自動車を降りたわけも、目的地の見当がついたので降りたのではなくて、桑畑の畦《うね》の下に沿っている狭い道を、無理やりに進めて来たものだから、当然な帰着として、それ以上は行きようのない山ふところの崖《がけ》と崖の窮地へ車体を傾けてしまったのである。 「なんていう所へやって来たんだ。君が知ってるというから安心していたのに、こんな所、自動車なんて一ぺんも通ったことのないような所じゃないか。はやくバックしろ、はやく」  T君はしきりに運転手へ怒りだしたが、運転手だって好きで来られる場所ではなかった。何しろその辺の草むらは、タイヤなどというものは頬張ってみたこともないように伸々《のびのび》しているのだ。加うるにすこし沢になっている傾斜を辷《すべ》り込んで来たのでバックをするには容易でない。  何事やらん——と思ったように、竹やぶの中の百姓家から、お婆さんやら子供たちが出て来て見物してくれる。附近の山で山仕事していた男だの畑の女たちも崖の上から首を出す。自責を感ずるの余り昂奮《こうふん》して物もいわない運転手は、躍起となって、とにかく半町ばかりバックさせた。それから方向をまわすのに一難儀あって、やっと僕らを乗せて元来た道へ向うと、タンクのように土壌の波に揺られて走りだした。  するとさっきから見物していたお婆さんや子供たちが、突然、何かわめいて車を追いかけて来た。運転手はやけくそにハンドルを廻し、その声をふり捨ててしまったが、後で訊くと、草むらに横たわっていた鍬の柄《え》を轢《ひ》き折ってしまったのだという。かわいそうなことをしたと思ったが、もう陽が暮れかけているのである。このあんばいで下り松が分るかしらと、そろそろ無駄骨を心のすみで悔いたりしていた。  ウインドを開けて、荒物屋の娘さんをつかまえて訊ねていた運転手は、ハンドルを持つとこんどは元気づいて、 「わかりました。詩仙堂《しせんどう》のそばだそうですから」  と、郊外の淋しい通りを、無遠慮に速力を出してゆく。 「じゃあ、下り松という地名が、今もあることはあるんだね」  このくらいの努力で分ったのは、むしろ多謝しなければならないと思った。しかしそれからまた、僕らは二度も車から降ろされて、路頭に迷った。先に来たのが北山御房《きたやまごぼう》のわきの蕪村《ぶそん》と呉春《ごしゆん》の墓のあるという土地だった。それがまた田圃《たんぼ》の道を迂回《うかい》して、すこし、町らしい四ツ辻を出て来ると、大きな鳥居があって、そこで運転手はもういちど訊いて見ようという。  その間にT君が、往来の者をつかまえてウインド越しに何か云っていたと思うと、 「さあ、降りた降りた」  と、いやに元気づいている。尾《つ》いて行ってみると、なんのことだ。自動車を止めた鳥居の下から二十歩もない所の四ツ角に、盲でもわかるような碑が立っているのだった。「宮本吉岡決闘ノ地」と碑面には深く彫《ほ》ってある。  未発見の遺跡でも突きとめたというならよいが、こうありありと前人が碑まで建ててあったとなると、探し廻って来た顔がその前ですこし間が悪くなる。  しかしとうとう夜になって、草臥《くたび》れ儲《もう》けで帰るのかと悲観していた程なので、欣《うれ》しかったことはいうまでもない。そこの地点はちょうどまた、自分が文献の中で想像していたような三本道の追分の角であったことも、何となく欣《うれ》しかった。  一乗寺山と瓜生山の裾《すそ》をひいて、その追分の辺も、少し傾斜になっている。人家はぼつぼつあって、開けかけている郊外の町といったような所。そしてその町角を、武蔵の碑のために、三角形に十坪ばかり玉石でかこって保存されてある。  下り松という地名から考えても、この追分の角には、遠い武蔵のいた時代よりも、もっと遠い以前から特色のある松の樹があったにちがいない。  ここへ来る前に僕は、多少、一乗寺址の地歴を、辞書でひいてみたり、また下り松という地名の出ている書を掻き探してみたのであるが、吉田東伍博士が太平記や名跡志《めいせきし》から引用して掲出している地名辞典の記載によると、 [#ここから2字下げ] 修学院村、一乗寺ノ別名ナリ。昔ハ枝垂ノ老松アリテ、後世植継ギテ地名トナル。太平記ニハ、藪ノ里鷺ノ森下リ松トツラネテ書タリ。 [#ここで字下げ終わり]  とあって、呼ぶが如き松の樹のあったことを立証している。それから、武蔵より前に、史蹟として残っている話では、無官《むかんの》太夫敦盛《たゆうあつもり》の死後、その妻が乳呑児《ちのみご》を匿《かく》すにもよしなく、この下り松の根元へ捨児《すてご》したのを、黒谷の法然上人《ほうねんしようにん》が拾い上げて育てたということが、名跡志に載っている。  敦盛の子を法然が育てたという話はうそではないようだ。平家が都落ちの時は、越前|三位通盛《さんみみちもり》を始め、平家の人たちの多くが、この上人へ後世のことや現世のことどもを頼んで行ったらしい事実がたくさんある。  随連、成阿という二人の弟子は、上人のいいつけをうけて、生田《いくた》の森の戦死者の死骸の中から、三位通盛の死骸を見つけだして、彼の妻の小宰相にわたし、彼が生前の頼みを果してやったという話もある。——また、上人の禅室に、嬉々《きき》として這《は》いまわっている嬰児《えいじ》があるので、或る人が、何人《なにびと》の子におわすかと訊いたところ、按察使《あぜち》の資賢《すけかた》の息女玉琴の子であると上人がいわれたので、訊いた者は、さては敦盛卿のわすれがたみであったかと驚き、そぞろに世の推移を眼のあたりに見たというようなことも、法然上人の方の伝記にも出ているから、名跡志にある下り松の史蹟の話とぴったり符節が合う。  碑の石はまだそう古くない。裏面へまわってみると、もう黄昏《たそが》れかけているのでよく読めないが、建設者の主旨《しゆし》や姓名が誌してあるらしい。後で人に訊いてその奇特家は熊本の堀正平氏であると知った。  松はもうなくなったのだろうか。松はどこだろうと、薄暮《はくぼ》の空ばかり探していたので見つからなかったわけである。碑のすぐ側に、一丈ぐらいな背丈の、そして皮も枝もない枯れた木が、二股になっている根元を人間みたいに踏ん張っている。  よく見ると、木のあたまに注連縄《しめなわ》が懸けてある。これだなと思って見直した。ふた抱えぐらいある巨木であるが、こうなるまでに、開けゆく郊外の住宅材料を積んだトラックにさんざん根元を踏まれたのであろう。下り松という風景の面影もない残骸《ざんがい》である。それを薄暮の中にながめていると、念仏上人の禅室に敦盛の子がよちよち這いずっていたのを見た人の感慨のように、時という空間のながれを僕も肉眼で見たような気がした。  下り松の所在が知れると、それからまた慾が図にのって、もう一つの宿題を解決してみたくなった。武蔵がここに立って多数の敵にまみえた日のまだ朝も暗いうちに、彼は、死を期したこの危地へ来る途中で、八幡宮の社前で足を止めたということが、これも確とした史実としてどの書にも伝えられている。  ——勝たせ給え。きょうこそは武蔵が一生の大事。と彼は八幡の社頭を見かけて祈ろうとした。拝殿の鰐口《わにぐち》へまで手を触れかけたが——そのとき彼のどん底からむくむくわいた彼の本質が、その気持を一蹴《いつしゆう》して、鰐口の鈴を振らずに、また祈りもせずに、そのまま下り松の決戦の場所へ駈け向ったという。  武蔵が自分の壁書としていた独行道のうちに、 [#ここから2字下げ] 我れ神仏を尊んで神仏を恃《たの》まず [#ここで字下げ終わり]  と書いているその信念は、その折ふと心にひらめいた彼の悟道だったにちがいない。武蔵にこの開悟を与えたことに依って、一乗寺下り松の果し合いはただの意趣喧嘩《いしゆげんか》とはちがう一つの意味を持ったものと僕はそう解釈する。 「この辺に君、八幡宮はないかい。いや、京都のほうから来るこの昔の街道のどっちかの途中に」  茶店でも近所でも、この附近や道すじには八幡の社《やしろ》はないということに一致していた。いちばん近いので二条の御所八幡か堀川の若宮八幡ではあるまいかと誰かがいう。いつのまにか私たちのまわりに人立ちという程ではないが、何を探しているのかと変に思った人たちが立っているのだ。少々、こちらもテレないこともないが、樹など枯れもするが、神社といえば、どんな小さな社にせよ、何か跡形が残っていなければならない筈だと考える。ふとそれから、自動車の止まっている側の鳥居を見て、あれは何神様かと訊くと、八大神社ですともう運転手が知っている。  鳥居をくぐると、すぐ狭い坂道をどうしても登って行くようになる。かなり急だ。登りきった所の右がわの苔《こけ》さびた一|棟《むね》が、石川|丈山《じようざん》の旧居|詩仙堂《しせんどう》の跡である。  今頃何しに——と疑うように、尼さんが僕らの跫音《あしおと》に外をのぞいていた。そこの屋根を下に見る程度まで詩仙堂の裏をのぼってゆくと、松のたたずまいや境内の地域は、かなりな社殿のあったことを思わせるが、今ではただ、蜜蜂の箱ほどな八ツのお宮が、八ヵ所に寂《さび》しく並んでいるだけで、昔のさまは偲《しの》びようもない。  八大神社はいうまでもなく、八つの神々を一つ地に祠《まつ》ったものだ。けれどもその中にも八幡様は在《おわ》さなかった。してみると、武蔵が足を止めて祈ろうとした社は、ここでもなかったのかとちょっと落胆《がつかり》する。  ——だが、その高い土地から立って、一乗寺下り松の追分を眼の下に見おろすと、僕には何かしら当時——その払暁《ふつぎよう》に武蔵がどう闘いの地へ臨もうかと苦念したかという気持が突然暗い松かぜの中から囁《ささや》かれて解《と》けたような暗示を受けた。  それは、無性《ぶしよう》をしないで、書く前に地理を踏んだ天恵《てんけい》の賜物《たまもの》だと思った。机のうえの構想では描《えが》けない想像が、しかもかなり自信をもって胸に描けてくるのだった。  おびただしい吉岡の一門一族の人数はまた、どう武蔵を迎えたろうかを、そこに立って考えてみると、下り松と目印を中心にして、あの追分から三方にわかれている京都からの道へ、それぞれ備えを伏せて待っていたに違いなかろうと思う。  武蔵が無条件で臨む筈はない。彼は敵の配置をたしかめて知っていた。そうすると、京都から約束の場所へ来るにしても、彼らの備えている道を避けたことは当然である。——そう推理的にここの地勢を見てゆくと、武蔵があるいて来た道は、どうしても山づたいよりないことになるのである。  もう白い星が洛内《らくない》にまたたいている。僕は振り顧《かえ》って、八大神社のうしろを見た。展望のきく前の視野の広さとちがって、背を振り向くと、そこはもう暮れて真っ暗な一乗寺山が自分の眉《まゆ》へ触れそうに近い。そして八大神社からもっとそこの山へ向って歩けば、山ふところを横に伝わって、鹿《しし》ケ谷《たに》の方面へも、また東山や京都の市中へも降りることができる。  武蔵は、山道を迂回して、敵の頭にあたるこの詩仙堂の上へ出て来たのではあるまいか。慶長のその頃には、石川丈山はまだそこに住んでいなかったが、八大神社はもっと神さびた拝殿や玉垣を持っていたかもしれない。いやここの社記に依らなくとも、この神社の地域の広さ、鳥居の大きさ、また縁起《えんぎ》の年代が古いことなどに依っても、それは推定して間違いはないことだろうと自分は思った。  そしてここから静かに下り松を見る。とすると、実は絶好な足場なのである。高い土地から敵の背面を衝《つ》いて、突如と彼らの本陣へ直進することができる地は、もう宵の真っ暗な風につつまれた附近を見まわしても絶対にここの山腹よりない気がする。 (——八幡神社と二天記にある記録は、八大神社のまちがいじゃないかなあ?)  自問自答しながら山を降りて、ここの地形と下り松をスケッチ帖へ写そうと思ったが、修学院をぐわらぐわら帰ってゆく農家の車やトラックの往還に、もう晩だという往来中に立って鉛筆も舐《な》めていられない気がしたので止めてしまった。けれど、そこの地を実際に踏んだがために得た構想は、後で小説を書く時になって、必然、地理ということが、史実の乏しい事件を、史実に不忠実でなく、しかも細致に書くという仕事の重要な基本となるわけであるから、なぜざっとでも写生して来なかったかと後悔した。で、帰京後、陶工家《とうこうか》の河合卯之助《かわいうのすけ》氏へ手紙を出して、もいちどそこを歩いてもらい、絵もうまい同君の手で一乗寺地形図と下り松遺跡の図と、二枚の写生をしてもらって東京へ送ってもらった。まだ紙上の小説はそこを書くまでには行っていないが、時々それを机上にひろげて、武蔵のあるいた足どりを推考していると、いつのまにか自分が歩いた半日の追想になって、あんな散歩のしかたも稀にはいいなと思うのであった。 [#改ページ] [#2段階大きい文字] 宮本村へ  胸中山水という言葉がある。画人のためにつかわれているが、小説家にも実にこの胸中山水がある。いや或る地方に対しては、胸中故郷といっていいほどな思慕さえ抱いていながら、容易に行かれないでいる所は多い。  山陽線はよく通るが、滅多に途中で降りる機会がない。まして、岡山県|英田郡《あいだぐん》讃甘村《さぬもむら》大字宮本——などとなると、これは上海や北京へ行くより遥かにやっかいだ。五万分ノ一地図で探し出すにも五分間ぐらいはかかる。因幡《いなば》、美作《みまさか》、但馬《たじま》、播磨《はりま》あたりの緑色の斑点帯《はんてんたい》を、蚤《のみ》の卵でも探すようにしてやっと見つかる山国の一部落だ。宮本武蔵が生れたという土地なのである。  新聞の連載小説を持っているあいだは、元日の朝でも、眼のさめるとたんに今日は——とすぐ頭へくる。自動車が衝突しそうな瞬間にも、危ないと思う咄嗟《とつさ》に、もう明日の紙上の責任を思うくらいなものである。その新聞小説を、朝日の紙上で、明くれば足掛け四年間にも亘《わた》って一主人公を題材に書いて来た。で、宮本武蔵の生地は、私にとっても、遂に胸中山水だけに止まらず、永い間一度は——と、そこへの旅行を宿題にしつづけていた胸中故郷の土地だった。  生憎《あいにく》と岡山を出た朝からばしゃばしゃと雨なのだ。ことしの五月下旬のことで、土地の乾《いぬい》利一氏や牧野融博士が心づよいことをいってくれるので、とにかく出かけてしまった自動車である。これが二時間行っても、三時間走っても、岡山市外からは畑と山と河ばかり。いやだんだん山と山ばかりになってくる。途中、和気とか佐伯とか周匝《すさい》とかいう小さい村や部落を時々見るほかは、行けども行けどもといった感じである。近頃、大陸という概念が流行《はや》って、やたらに日本を小さがるが、山陽沿線から中国山脈の臍《へそ》のあたりまで走ろうとしてみると、日本といえども一口にはいえない。 「いったい何時間ぐらいかかるんですか」  運転台に納まっている朝日の支局の人が、 「ま。五、六時間でしょうなあ」  と、軽くいう。  帰りは佐用郡から三日月へ出て龍野町《たつのまち》を経、私線で姫路へという予定だが、これも四時間はかかろう。もう度胸はきまったようなものである。岡山で誰かが自動車へ入れてくれた初平の果物の籠《かご》など開く。倉敷《くらしき》でいちど降りてうどん屋で雪隠《せつちん》を借りる。雨はすこし霽《あが》りもようだが、低い山まで雲をかぶっている。蓑笠《みのかさ》の人だの、荷駄馬だの、そろそろ道ばかりでなく時代も風俗も、武蔵の頃に溯《さかのぼ》って行くような気持になる。  牧野博士は、宮本村の一つてまえの大原の産だから土地に詳《くわ》しい。自動車の行く道にそって流れているかなり大きな河が、あなたの小説に描かれている吉野川ですと教えてくれる。それからまた、折角お出でになるんでしたら、小説に書く前に来て、実地を踏んで置かれたらよかったですなあ、との言葉に私は、 「いや、胸中山水だからよいのですよ。耕地整理みたいに、余り歩いてしまうと、かえってああは書けなかったかも知れません」  と、負惜しみをいう。  山を縫《ぬ》い山を繞《めぐ》り、やっと宮本村に着く。つい宮本村と私もここに誌《しる》すし、土地の人もそういっているが、正しくいえば以前は吉野郡宮本村だったのが、今では讃甘《さぬも》村大字宮本と改められているのである。  その宮本村附近は、どっちを向いても山で、平面の耕地は甚だ少ない。しかし山は嶮峻《けんしゆん》でなくそう高くなく、線の和《やわ》らかい所に、北陸や信州あたりの山国とちがう平和な明るさがある。  吉野川は山の腰を繞《めぐ》って、畑や水田の間を蜿《うね》ってゆく、この流れも河原もきれいで、神社の森、小学校の木造建、役場の白い壁などが点綴《てんてい》している。私は、自動車を降りて眺めた瞬間に、自分でも驚いた。この土地は決して私にとって初めてな感じがしなかったからである。前から小説の背景とする必要に迫られ、地名辞書、古絵図、五万分ノ一地図、名所図絵、地誌などに依って、空想で作りあげていた私の胸中山水と、この土地の実景や地理が、どこも意外に思う節がないほど、偶然にも一致していたからだった。  雨合羽《あまがつぱ》、蓑笠《みのかさ》、洋傘、番傘、わらじ、足駄穿《あしだば》きなどの泥だらけな群集に、女子供や老人たちまで交《ま》じって、物珍しげに、私たちの自動車は取り囲まれてしまう。讃甘《さぬも》村小学校の校長さんやら大原町長や、村長その他の村の人達であった。  雨の降る道傍《みちばた》に立って、私はこの質朴な人々から長々と歓迎の辞を述べられる。この郷土の人々は自分たちと生地を同じゅうする三百年前の宮本武蔵という者を、さながら今も自分たちの家族の長として在るように敬慕し、そして誇りとしているのだった。たまたま、こうして訪れた私を迎えてくれるその誠実な欣《よろこ》び方は、私をほっと安心させてくれると共に、私の作品上の構想だの創作のための架空な挿入などを、尠《すくな》からず相済まなく思わせた。  自動車を停めたすぐ後ろの傍《そば》に、偶然にも、武蔵の父の無二斎夫婦の墓がまだ取残されてあるから御一見くださいと、村の人達が先にこう上って行く。私は頭からマントをかぶり、足も着物の裾も泥と露になってやっとそこまで尾《つ》いて行った。巨《おお》きな栗の古木の下に、苔《こけ》むした墓石が角もとれて埋もれている。それは三尺に足らない小さい石である。私が見え分かぬ苔の下の文字をどうかして読もうと雨中に屈《かが》んでいると、番傘をさしかけていてくれた人が、 「智善さんや。智善さんは来ていなかったかよ」  と、大勢の中へ呼び立てる。  八十幾歳というがまだ元気な老僧が、人を掻分《かきわ》けて前に現われる。大野村に現存する宮本家の菩提寺《ぼだいじ》の住職で永幡智善《えいばんちぜん》師だとわかる。紹介者がいうには、智善さんは明治四十年頃に、宮本武蔵の碑をこの村の武蔵の生れた屋敷跡に建てた発企者《ほつきしや》の一名で、その頃、細川護成氏や県知事などの協力を得るために、だいぶ武蔵の事蹟を調べたことがあり、その当時、菩提寺の過去帳に宮本家の血縁者の歿年《ぼつねん》戒名《かいみよう》などを発見して、その写しを今もこの和尚が保存している筈ですが——というのであった。  耳の遠い智善さんは、まじまじと紹介者と私の顔を見くらべていたが、紹介者のことばが分ると、きょうあんたが来るということなので、その過去帳の写しをこれへ持って来ている。墓石の文字はもう判読できないが、多分この方が正確でしょうと云いながら、袂《たもと》から取り出してその写しを私に示すのであった。  従来、武蔵の父の新免無二斎なる人の在世年間やその歿年は、熊本の武蔵顕彰会本でも、幾多の武蔵研究家にも、推定だけでまったく不明に付されていたものだが、今、永幡智善翁の示すものを見ると、明白に誌《しる》されてあるのである。のみならず宮本家と新免家とが姻戚関係にあったことだの、それともっと重大な点は、武蔵の母の歿年とその年齢がこれによると闡明《せんめい》されている点などで、武蔵の幼少時代を知る上において、これはかなり種々な示唆を含む貴重な発見ということができるものであった。で、少しわずらわしいが、その過去帳上の記録をここに誌して置こう。 [#ここから2字下げ] 文亀三 癸 亥 十月二十一日 武専院一如仁義居士  平田将監 永正三 丙寅年 七月十五日 智専院貞実妙照大師  平田将監妻 新免氏娘政子 天正八 庚辰年 四月二十八日 真源院一如道仁居士  平田武仁少輔正家(年五十歳) 光徳院覚月樹心大姉  平田武仁妻(四十八歳)   (天正十二年申三月四日) [#ここで字下げ終わり]  他に新免備中守貞弘《しんめんびつちゆうのかみさだひろ》という人だの、その妻女の法号なども書いてあったがここでは略しておくことにする。備中守貞弘というのは怖《おそ》らく無二斎の主筋《しゆすじ》にあたる竹山城の新免氏一族の末であろうと考えられる。そして以上の系累書でもわかる通り、宮本家の先祖平田将監が、主君新免氏の娘政子を妻に娶《めと》っているので、新免家と宮本家とは主従であると同時に姻戚《いんせき》の間がらでもあったわけで、過去帳の同列に記載されてあったのも、そんな関係から、ほとんど一族として寺では扱っていたものであろう。  後年、武蔵の自筆の手簡や文書などには、宮本姓を書いたり、新免姓を名乗ったりして、両方を用いていたらしいが、新免武蔵も宮本武蔵も勿論同一人で、従来はその理由をただ、父の無二斎の代に功があって、主人の姓を許されたのであるというだけにしか止まっていなかったが、これでみると、血縁的にも新免氏を称する理由が明白に証拠だてられている。 [#改ページ] [#2段階大きい文字] 讃甘から巌流島へ  雨の中を迎えに出てくれた人達は、そこからまた、私たちを讃甘《さぬも》村小学校まで案内して、校舎の階上へあがり、茶菓子を出して、こもごもに遠来の労を犒《ねぎ》らってくれるのだった。  純朴《じゆんぼく》な人々ばかりである。中には紋付袴《もんつきはかま》で慇懃《いんぎん》を極める人もあって、野人の私は尠《すくな》からず恐縮したが、そのなかに本位田兵之助という名刺を示された人がある。  本位田又八という名は、私の小説宮本武蔵の中にしばしば現れるところの仮想人物で、かつてこういう人間は自分の家系のうちに無いと、帝大教授の本位田祥男博士から抗議をうけ、それについてまた、私も弁明を試みたことなどもあるので、この日の宮本村訪問に際して、不意に出された同姓の名刺には、私もちょっと眼を瞠《みは》った。  すると、その名刺の本位田兵之助が、鶴のような一老人を紹介され、 「本位田祥男の父です」と、いわれた。  私は愈※[#二の字点、unicode303b]恐縮したが、かえってまた、偶然な知己に会った気もして、本位田家のことについて、直接いろいろ聞くことが出来た。祥男氏の厳父は一見、古武士の血をそのまま風貌に持っているような旧家の老翁であった。小説の上のことでは、祥男氏ほど気にかけておらず、同席の郷里の人々もみなその点は地元だけによく諒解されておるらしい様子なので、私もいささか安心した。そしてむしろそれが打解けた談笑の種にもなって、自分も忌憚《きたん》のない話を持出し、人々も興がって時を移した。  地元の人たちはあらかじめ、私の史料|漁《あさ》りのために、宮本武蔵に関する古文書や参考品を、この小学校の講堂に蒐《あつ》めておいてくれたが、取立ててここに誌すほどな発見もその中にはなかった。  むしろ私に懐かしく思えたのは、讃甘《さぬも》小学校の窓から見える竹山城の古城址であった。本位田祥男氏が私へ書いた抗議のうちの文章にもある通り、山は竹が密生して、いかにも夕方など、鴉《からす》が喧《やかま》しそうである。小学校からは何町もない地点にあって、その麓になお、旧城下の下町と称《よ》ぶ民家が散在している。  武蔵の父新免無二斎や、本位田家の祖先が伝えていた城主の居館の址は、今は形もなく、僅かに山頂の平地から山の東北面にかけて、往時の土台石とか、井戸の址とか、石垣の址などが残っているに過ぎないという。  しかし現今でこそ、この地方はまったく山間の僻村に過ぎないが、武蔵が出生した当時から新免|宗貫《むねつら》が在城以前のこの地方は、山陰と山陽を結ぶ交通路としても——また応仁以来の群雄が拠《よ》る絶好な城塞地《じようさいち》としても、現在よりは遥かに殷盛《いんせい》な小都会であったのではないかと思われる。  一体、この附近の文化発祥というものは、幾多の古墳や社寺の遺物を見ても、非常に古いらしい。讃甘村の名称にしても、伝説ではあるが、大《おお》海人《あまの》皇子《みこ》が大友皇子《おおとものみこ》に襲われ給うて、隠れた地だと云い伝え、その地名の讃甘は、この郷土の酒の甘味なのを皇子が愛《め》でられたところから来たものだと云っている。  それとこんな狭隘《きようあい》な山間の一郡なのに、古城址の多いこともまたこの地方の特徴である。竹山城を始め、比丘尼《びくに》ケ城《じよう》だの、赤田城《あかたじよう》だの、堂ケ峰城だの、正岡城だの、小淵城《こぶちじよう》だの、大野五ヵ城の一つという法天山城址《ほうてんやまじようし》とか、その他、城主も地名年代も不明のものまで入れたら、この一村附近だけでも数え切れない程な古城の址《あと》だらけなのである。  その幾多の城主たちは皆、建武南北の治乱から、応仁の乱以後の地方的動乱の波及をうけ、戦国中期までの長い時代に亘って、中央の不安と共に、この山谷でも無数の小豪族と小豪族とが、征服しまた征服され、統一されまた解体され、子々孫々流血の中に生きて、限りなき治乱興亡を繰り返して来た墳墓《ふんぼ》でない物はないのである。  今それらの城主や戦蹟についていちいち記録を拾っている遑《いとま》を持たないが、宮本武蔵はとにかくそういう郷土の胎土《たいど》から生れているのである。そして彼の生れた天正年間は、すでにこの地方の小豪の争奪も終熄期《しゆうそくき》にかかっており、竹山城の推移をそれに見ても——足利末期の山名一族と赤松一族とが鎬《しのぎ》を削《けず》った後——赤松家の臣浦上一族が占《し》め、その浦上が亡ぶと浮田家の所領に移り、浮田家の支配下として新免伊賀守|貞重《さだしげ》、貞宗、宗貫《むねつら》と三代の居城になって来たわけである。  新免家三代の在城期間は、明応二年から慶長五年までの約百年であった。関ケ原の役に浮田家の敗滅と共に、新免家も亡び、竹山城もまた、徳川家の勢力に組み入れられてしまった。  関ケ原の役には、武蔵も十七歳で戦に出て、その以後は、郷里に住んだ様子もないから、彼もまた、その少年期だけを、この山間城下の殷盛《いんせい》になずみ、竹山城の壊滅と共に、郷土から姿を消したわけである。  武蔵の少年時代も、こうあったろうかと想像されるような村の少年達が、何百名か階下の講堂に集まって、私の講演を待っていた。校長や村長たちに乞われるまま、私はそこで約一時間ばかり、少年たちに、郷土と日本の力、古人は今も生きている——というような話をした。  それからすぐ私は、武蔵の出生地、新免無二斎の屋敷址へ行ってみた。ここも小学校から大原町へ行く往来のそばで、何町も離れていない所だった。道路を貫いて一すじの小川があり、その石橋を境にして、一方は荒巻神社の境内になっている。  宮本家の屋敷址というのは、その境内と小川を距《へだ》てて隣り合った畑地である。俗にセドと称《よ》んでいる地で、道路の前面が約三十間、横十八間ほど低い石垣で囲まれている。これだけの宅地に住んでいたとすれば、郷土の家としても、相当な構えであったように思われる。  今はそこに大きな碑が立っている。畑地の奥に藁葺屋根《わらぶきやね》の農家が見える。新免家の縁類の子孫かのように聞いた。  二天記に、武蔵が二刀流は、幼少の時、鎮守《ちんじゆ》の舞殿で、太鼓《たいこ》を打つ撥《ばち》のつかいようを見て、それから悟ったと逸話的に伝えているが、その神社というのは、この川一すじ隣の讃甘神社のことであろう。  宮本という地名も、この神社から起っているらしい。年代は不詳《ふしよう》だが往古は荒巻大明神《あらまきだいみようじん》といい、讃甘郷の総鎮守として、そのお宮もすぐ裏山の大段という上にあった。で、宮ノ下《もと》と称した所から、宮本と転訛《てんか》したものと思われる。なおこの宅址の地から少し山へ登って行くと、宮本家の墓所がある。これは先の無二斎夫婦の墓よりも後に縁類の者が建てた物であることは、墓石の新しさを見てもわかるが、ただ、私にとって一つの発見であったことは、その石に刻されてあった家紋であった。武蔵自筆のものにも、二天藤原玄信《にてんふじわらもとのぶ》とあるとおり、彼自身も藤原氏を冠《かむ》せていたが、この墓石の紋は、菅家紋《かんけもん》といわれる梅鉢であった。  何でもないことのようだが、武蔵の紋が何であったかなども、やはり机の上の蒐覧《しゆうらん》だけでは獲《え》られないことなので、一日雨に濡れて歩いたこの日の旅も、無駄ではなかったと、私は独り満たされていた。  それと、宮本村を辞して、山越えで佐用へ出て来る途中——殊に竹山城から少し先の低い山肌《やまはだ》には、可憐な鉄砲百合がたくさん咲いていて、その一枝を自動車の中に持ちこんだところ、咽《む》せるような匂いで、揺られ揺られ百合の香に酔ったことなども、津山市から姫路へ出るまでの長い道を、旅情といったようなものに尠からず慰められて来たことであった。  巌流島《がんりゆうじま》を訪れたのは、その後、新春の一月、やはり史料|漁《あさ》りに、熊本まで行った帰り道だった。  つい先頃、某社の記者が、鈴木文史朗《すずきぶんしろう》氏の言伝てですがといって、 「この間、巌流島へ行って見て来たが、当時の遺跡や、土地の口碑を聞いて、いろいろ面白かったよ。吉川君に会ったら話してやりたいが」  と、消息を齎《もたら》してくれたが、まだ鈴木さんにはつい会う折がない。  実のところ、私は、巌流島まで渡ったのではなく、対岸の小倉市外の山から地形を俯瞰《ふかん》したり、向山の武蔵塚を歩いたり、朝日新聞支社の人々の手をわずらわして、短時日に史料や口碑を漁《あさ》って来たのであって、そこの地を踏まれたという鈴木さんの話にはまた、何か新しい話材が聞かれるに違いないとは思っているが、遑《いとま》がないので先ず、自分の旅嚢《りよのう》だけをここでは開けて見ることにする。  すでに七分どおりまで開鑿《かいさく》されているという関門海峡の海底トンネルは、ちょうど巌流島のすぐ傍の弟子待《でしまつ》という小島で一度地表に出るようになるらしい。そうなれば、今までは伝説的な海峡中の一地塊に過ぎなかった巌流島も、将来は一名所となって、そこを通る旅客の眼に、かなり濃い印象を持って、往年の武蔵と佐々木巌流の試合なるものが強く想起されて来るにちがいないと思われる。 [#改ページ] [#2段階大きい文字] 巌流島拾遺   ——武蔵と小次郎との剣跡  汽車の時間の都合で、門司駅に降りた私の朝はすこし早過ぎていた。朝日新聞支社のT氏が迎えに来ていてはくれたが、ゆうべ受取った電報が急なので、巌流島へゆく船の都合がまだついていないという。  写真部のN氏も来ていて、その氏がいうには、わたしは何度もあの島へは行っているが、わざわざ上がって見るには及ばないでしょう。以前とは地形もまるで変っているし、特に見る物は何もありません。それよりは風師山《かざしやま》へ登って、眼の下に大観すれば、かえって往時を想像するにはいいかもしれませんよ。土地の口碑だの、巌流島に関する何かの材料は、市の史料編纂課だの、郷土史家の吉永卯太郎氏や古老をさがして、今日のうちにべつに社会部の記者を頼んで訪問させておきますから、こっちはその間に、風師山から武蔵碑のある延命寺山《えんめいじざん》だのを一巡して、あの辺を念入りに踏査なすったほうが能率的じゃありませんか。——といってくれる。  大阪に約してある用事の都合で、私はどうしても午後の汽車で立たなければならないので、ではそうしていただこうと、支社の自動車にまかせてすぐ風師山へ向った。冬の狭霧《さぎり》がまだ深くて頂上からの眺望も模糊《もこ》としてただ寒さにふるえ上がるばかりだったが、雲間のこぼれ陽が映《さ》すと関門の海峡一帯から、母島の彦島、そのすぐ東岸を少し距てて巌流島が見られ、連絡船の影だの起重機の鉄骨だの、雑多な船舶だの、そして陽がさしても、重工業のうす黒い煤煙《ばいえん》がどことはなく一面に朝をつつんでいる。  いうまでもなく、この辺は要塞法による撮影禁止地域だし、スケッチも禁じられている。私は眸《ひとみ》をこらして、ただ往時への想像に耽《ふけ》ってみるだけだった。  見たところ巌流島は、彦島の子島にすぎない一|平州《ひらす》である。島の北崖がやや高く、東南へかけて平べったく海水とひたひたに渚《なぎさ》の線を描《えが》いている。  彦島村役場の明治頃の土地台帳によると、巌流島全体の面積一|反《たん》六|畝《せ》十六|歩《ぶ》とあるから、いかに小さい島かが分ろう。岸のいちばん高い所でも六十三|呎《フイート》ぐらいなものだとある。武蔵と巌流との試合が行われた場所は、その小島の中央からやや南寄りの平地だったといわれている。その平地の一端に水溜りほどな池があって、太刀洗《たちあら》いの池といわれたものだという。  豊前民謡に [#ここから2字下げ] わしが心と巌流島は ほかに木はない松ばかり [#ここで字下げ終わり]  と謡《うた》われていたそうだが、土地の古老や郷土史家が朝日支社の「宮本武蔵座談会」で話している筆記を見ると、松ばかりというのは、下関や小倉から見た遠望の観念なのであろう。その席上で古老の云っている一節をここに借録《しやくろく》してみるなら、 [#ここから2字下げ] ——左様。……今は形も変り樹も少なくなっていますが、以前はもっと目につく島でありました。私が知ってからでも、松と山桃それに笹が沢山|生《は》えていまして、松は相当に数があり、大きいのは一抱えぐらいのやつが両方の高見にずっと茂っていました。島のまん中は平地で、砂浜になって干潮の時は遠浅《とおあさ》の洲に続きます。漁に出て休む時は、潮のかげんでそこに舟をよせたものです。それに古い井戸が一つありましたよ。……云々 [#ここで字下げ終わり]  なお、詳しい調べに依ると、実生《みしよう》の小松やら、合歓《ねむ》、女竹、草には薄《すすき》、苺《いちご》、蕗《ふき》の類などが雑生していたというから——慶長十七年の春四月の頃だったという、武蔵と巌流との試合が行われた当時の島の風趣は、ほぼ推測することができよう。  巌流島という名称は、もちろん慶長以後、武蔵と巌流の試合が喧伝《けんでん》されてから後のもので、その以前は、船島《ふなしま》とよばれていたし、その船島という名も、附近の俚俗《りぞく》の呼び慣わしで、一般の地理的な眼にはほとんど入らなかった一小島に過ぎなかったにちがいない。  有芳録《ゆうほうろく》などには「岩柳島」として明らかに出ているが、古い記載にはほとんど見当らない。母島の彦島がこの辺の史蹟としては記録上にも代表しているかたちである。 [#ここから2字下げ] 寿永四年正月。前内府《サキノナイフ》、以讃岐《サヌキヲモツテ》、 城廓ト為サレ、新中納言知盛、 九ケ国ノ官兵ヲ相具シ、門司 ケ関ヲ固メラル。彦島ヲ以テ 営ト定メ、追討使ヲ相待…… 云々(東鑑) [#ここで字下げ終わり]  などの記載や、盛衰記の元暦元年の条には、義経の軍が兵船を仕立てて知盛の引島城(彦島)を攻略するの記事などが見えるが、そのほかの紀行や古歌などを見ても、特に船島の文字は見あたらない。  もっともこの辺り海峡一帯には、島とも岩礁《がんしよう》ともつかない物だの、六連《むつれ》、藍島《あいじま》、白島《しろじま》など幾らもあるので、特に目にも入らなかったのであろう。それが一躍天下に知られたのは、巌流の墓碑が試合の後に建ってから後のことだったのは疑いもない。  小倉市|手向山《たむけやま》の武蔵の碑《ひ》は、すでに著名なものだが、巌流島にある巌流の墓は、ほとんど土地の人しか知っていないらしい。もっとも現在の墓は、明治四十三年頃に新しく建て換えたものであるが、それ以前から前に云った太刀洗いの池附近に、卵塔型《らんとうけい》の苔《こけ》むした自然石が草むらに埋れていて、それが巌流の墓石と云い伝えられ、島に上がった船頭などはよく戯れに、その石を、力競べには手頃なので、差しあげたり、抛ったりしたものだそうである。  古いその墓石は、誰が建てたのか、惜しいことに行方も知れないので記年も施主《せしゆ》もわからない。この島の名を有名にさせ、武蔵のために敗《やぶ》れて敢《あえ》なく若い偉材をこの一小島に埋めた佐々木小次郎に——一掬《いつきく》の涙をそそいで墓石を建てた古人は、いったい誰だったか。私はむだと知りながらも思いを追わずにいられない。  現在の巌流碑《がんりゆうひ》は、四尺七、八寸の棹石《さおいし》で、実見しないが、碑面に、 [#ここから2字下げ] 佐々木巌流之碑 明治四十三年十月三十一日 舟島開作工事之際建之 [#ここで字下げ終わり]  とある物で、施主数名の名が刻してあるとのことだが、それらの人は、おおかた附近の漁民や船頭業の者らしく、島の土地が漸次、時代の工業的な光をうけ出した標識とも見られるのである。  この島の土地が、母島の持主の手から離されて、売りに出されてから、三菱合名だの正金だの神戸の鈴木だのと、幾度も所有者は変って来た。明治二十六、七年ごろには、赤間《あかま》ケ関《せき》消毒所というのが建ち、日清戦争の頃には、そこが傷兵の病院にもあてられた。大正何年にはまた、小|船渠《ドツク》が起工されたり、神戸の鈴木が何か計画したりしかけたそうだが、みな物にならないで、現在は関門トンネルの開通を目前にしながらなお、工業的には無為に抛置されてあるらしい。  平家没落の時代から、この附近や壇《だん》ノ浦《うら》あたりには、総じて伝説が多く生れている。巌流島を繞《めぐ》る伝説も、波間の船人の口々からいろいろ伝えられているが、おもしろいのを二つ三つ拾ってみると、こんな話が残っている。  船人が、何かのことで、巌流島へ船を寄せても、巌流の墓石が見える時もあり、見えない時もある。——見えない時は凶事がある。見える時は運がいい。  また、すこし怪異めくが。  毎年、盆の十六日の晩には、巌流の墓石から、閃光を発して、火の玉が飛ぶ。すると対岸の小倉延命寺山のうえにある武蔵の碑からも、同じように火が飛んで、ふたつの火の玉が、年ごとに暗夜の宙で斬り合って消える……。  次の話はまた、近年なので、生存している者の口からいわれていることだそうであるが、それもなかなか妖気めいた説話で、いかにこの辺の海上生活者や海峡の雰囲気が、かつての要塞地以前、重工業の中心地以前にはロマンチストであったかが思われるのである。  その話というのは。  ——つい大正年間、先に云った小|船渠《ドツク》の従業者が、島に二、三十戸の部落を建てて住んでいたが、船渠が成り立たないので解散になり、住民もほかへ皆移ってしまったが、その後に、夫婦者の番人だけが残って一軒の小屋に住んでいた。  ところが、夜になると、ほとんど毎夜のように、番小屋の囲《まわ》りを人の駈ける跫音が、追いつ追われつ駈け巡るというのである。戸を開けて見ると何も見えない。枕につくとまた、凄まじい勢いで人が駈ける、人が追う、果てしなく家のまわりを駈けめぐる。  番人の婆さんは気が狂って死んでしまった。残った爺さんの方も、郷里へ逃げ帰ってしまった。今でもそこの大松の下に、番人の爺さんが供養に建てた小さな祠《ほこら》が残っている。——だから武蔵に打たれた巌流は、今でも成仏していないに違いない……。  こういう船頭ばなしに近い話は、拾えばまだ幾らもあるらしいのである。以て、宮本武蔵と佐々木小次郎の遺跡に対する、この地方の土俗的な観念は窺《うかが》うことができるというものである。延命寺山の武蔵の碑についても、同様な類の口碑は二、三聞いた。——しかしそこの武蔵の碑文は、いわゆる「小倉碑文」として武蔵研究家のあいだには必ず例用されている一史料ではあるし、また、巌流島の試合から約九年後に、養子の伊織が、養父武蔵の親友春山和尚に原文を書いてもらって建てた物という立証も正しく分っているものなので、巌流の苔石ほど、時代は経っていても、そう妖気めいた伝説は附会する余地がない。  すぐ延命寺山の方へ巡るため、私たちは風師山の急坂な自動車路を、車の中でのめるように辷《すべ》り降りていた。 [#改ページ] [#2段階大きい文字] 熊本紀行 [#1段階大きい文字]   六箇所の碑  ふつうの伝記ならば、先ず武蔵の生国、年代、家系というような生い立ちから書くべきだろうが、そんな形式にこだわらないつもりだから、僕はこの一月早春、熊本小倉地方を歩いて得た彼の晩年期の遺跡の踏査から先に書いてゆくこととする。  誰の言葉であったか、いつか有信館の座談の時に、 「宮本武蔵の墓と称するものは全国に六つある」  といったのを聞いたことがある。  墓ではなく、碑や遺跡も合せてのことであろうと察し、聞いたままに数えてみると、   愛知郡川名村新豊寺の碑   名古屋笠寺観音堂の碑  こう二ヵ所は、共に門流の人々の建立で、一つは延享年間に、一つは寛政頃に建てたものであるから、今も現存していると思うが、ついまだ自分は訪れてみない。  次に有名なものでは、   小倉市外延命寺山の碑   熊本市外弓削村の武蔵塚  の二ヵ所である。碑として数えられるのは、以上四つしか自分には心当りがないが、全国に六ヵ所あるといった人は、それに武蔵が臨終に近い日まで想念の床としていたところの   熊本市外岩殿山の霊巌洞  と、それに武蔵遊歴中の遺跡であり、現存もしている   千葉県行徳村藤原の徳願寺墓  とを数え入れているのではなかろうかと思われる。しかしどっちにしても六ヵ所の墓が残っているというのは当らない話で、厳密にいえば、熊本の武蔵塚だけが、ほぼ墓所として確定されてある限りである。  しかし、この一月頃、私がその実地へ立って仔細に見たところでは、武蔵塚も呼ぶが如く、塚であり碑であって、その碑面の文字にも明らかに、   新免武蔵居士之塔  と刻してある。塔という一字が何となくただの墓所とちがうような感銘を私に与えたことは否み得ない。 [#1段階大きい文字]   武蔵塚を訪う  それはとにかく、私は熊本へ着いた翌日の、早朝旅舎の一日亭から、自動車で第一にそこへ向った。観光局と市の吏員たちが案内役だった。熊本城と共に清正の経営になった軍馬|繋《つな》ぎの幅広い並木道は、往時天下第一の街道であったことが頷《うなず》かれると共に、今ではそのまま、改修なしに自動車道路として使用されている。従って両側の並木も路面を工事するために伐木する必要もなく保存されてあった。その並木の間から阿蘇《あそ》の噴煙と、外輪山の雪が望まれてくる。  清正の経営に成った大道を自動車で快走しながら、ふと車の中で思い出したことは、後藤新平と京浜国道のことだった。今の京浜国道は、後藤新平が東京市長時代に設計されたものだと聞くが、最初、後藤市長の出したプランは現在の道路の約二倍以上な道幅のものであった。ところが市会にかかると、また後藤の大風呂敷が途方もない馬鹿な設計を担《かつ》ぎ出したとばかりで、議員の嘲笑を買い、議する度に、彼の案は削られて、やっと現状の幅員《ふくいん》の設計で通過したものであるという。  その京浜国道は、出来上ってみると四、五年を経たない間にもう狭いことに苦しみ出し、交通事故の第一の場所となってしまい、最近またすぐ同じ京浜国道を同じ地域に近い土地へ引っぱることで、多分な市費と市力を傾けながらごたすた[#「ごたすた」に傍点]やっているそうだ。  清正の案には、城を築くにも道を作るにも、そんな煩いがなかったのである。今もなお、颯々と、当時の清風は車蓋《しやがい》を払って東京市の風とはだいぶ味がちがう。  武蔵塚という名称から想像して、そこへ行くまでは、さだめし村里の藪《やぶ》の畑の傍《かたわ》らに、名ばかりの苔《こけ》むした碑が、土地の人にも忘れ去られて在るに違いないと思っていた。ところが、私の想像はまったく外《はず》れて、自動車から降りると参道の入口から墓碑までの小石を敷いた道や石段や生け垣などの、気持よく清掃されてあるのが、意外な程であった。  入口を直ぐ右側に、絵ハガキや参詣者へのスタンプなどを備えている社務所風の家屋がある。そこを覗いてみたが誰もいないので、直ぐ彼方に見える塚のほうへ歩みかけると、その家の裏口から肩の尖《とが》った老人が、痩《や》せた腰に袴《はかま》の紐《ひも》を小学生みたいに括《くく》り、朴歯《ほおば》の曲がった下駄をゴロゴロ運んで来ながら、私の名を呼びかけて辞儀をした。 「きょうお出でになることを新聞で見ましたのでお待ちしておりました所です」  老人は、宮本武蔵顕彰会のここの事務所に住んで、武蔵塚を守っている松尾一郎翁だった。 「どうぞ」  と、先に立つ翁に従って、私たちは墓碑に参拝した。碑は約十坪ばかりの玉石の段に囲まれ、側には巨《おお》きな樹が根瘤《ねこぶ》を張っていた。辺りは庭のように箒目《ほうきめ》が立っていて、「新免武蔵居士之塔」と仰がれる碑面の右の後ろ、木の間がくれに、阿蘇の噴煙が鮮やかに望まれる。  一郎翁の話に依ると、武蔵塚を訪う人は年々多くなっているとのことである。展墓者名簿《てんぼしやめいぼ》を一眄《いちべん》すると、ただに剣道家ばかりでなく、遠くは布哇《ハワイ》、朝鮮、満州などの居住者が見えるし、中でも私が目を止めたのは、   岡山県英田郡讃甘村宮本  平尾泰助  とある一名の参詣者だった。  いうまでもなく、英田郡讃甘村は、宮本武蔵の生国の地である。故人とどういう縁故のある者の子孫かと、私は私の想像|癖《へき》をまたそぞろに駆られて、一郎翁に訊《たず》ねてみると、その平尾泰助という人は、武蔵の姉が嫁《とつ》いだ先の家筋の子孫だとある。歿後三百年の後にもなおまだそういう有縁《うえん》があったり、余風を慕って訪れる幾多の道友や知己を持つ武蔵は、それも彼が虚空《こくう》に遺した心業の威徳とはいえ、もって瞑《めい》すべきではあるまいか。私は塵《ちり》一つなく箒目の立った碑前に立って眼も心も清々《すがすが》しかった。 [#1段階大きい文字]   余風一喝  余風といえば、武蔵の心業が日本の剣道精神を通じて、現代人の心にまで一つの大きな哲理と人生観を示唆し、隠れたる無数の武蔵崇拝者を持っている事実には、自分も朝日紙上に小説を発表した時の反響でも驚いた程であったが、今度この熊本地方を旅行してみても、しばしば、その事実を認めさせられて、今さらのように彼の孤高独行が、決して、その死後においては孤でなく独行でなかったことを知った。  ここの塚守の松尾一郎翁も、武蔵先生の事蹟についてと問えば、その細ッこい老骨の肩をそびやかしつつ、談じて飽く気色がない。 「てまいみたいな者が武蔵先生の墓のお守りを吩咐《いいつ》けられていることは、むしろ身に過ぎた仕事だと思っとりますんで、一生涯ここにいさしてもらうつもりでおりますが、たくさんな参詣者のうちには、面白半分にやって来て、下駄ばきや靴のまま土壇の上にのぼる人間もありまするで、てまえが側から、降りろっ、この地下のお方を汝らが踏んづけると、汝らの足が曲がるぞっ、一喝《いつかつ》を喰らわせてやりまする。するとあわてて降りるものですから中には転ぶやつもありましてな。ハアアアアア愉快ですわい」  抜けかかっている大きな前歯を出して一郎翁は笑った。無礼な参拝者が転んだという話からまた、翁はこの塚に関わる次のような伝説を話し出した。 [#1段階大きい文字]   伊織への書状  一郎翁はこう話した。 「現在の碑は、御覧のとおり南に向いておりますが、昔は、すぐそこの街道へ向って、真正面に建っていた物で、附近の百姓どもは武蔵塚の前を馬で乗打《のりうち》すると、きっと落馬するといってひどく怖がっていました。士分《しぶん》の者でも馬から降りて通ったそうであります」  武蔵の碑に絡《から》まる郷土的な伝説は、後にも話すが、小倉の碑にも種々伝えられている。碑に対して無礼を働くと落馬するとか、病気をするとかいう恐怖感は、要するに故人の遺風や人格に対する土民の崇敬が、擬神的な観念になって変形して来たものであろう。  次に、この墓碑の下に埋葬されたという武蔵の遺骸は、二天記の記載に依ると、本人の遺言に従って、死骸には甲冑《かつちゆう》を着せ、太刀を佩《は》かせ、六具を纏《まと》うて厳《いか》めしく武装した身装《みなり》で入棺《にゆうかん》したとのことである。  武蔵が、こんな遺言をしたわけは、彼が養子の宮本伊織へ与えた最期の書状にも、また、日頃親交ある人々へ云い送った文書などでも明白にわかる。 [#ここから2字下げ] われ君侯二代に仕へ、その恩寵《おんちよう》を蒙《かうむ》ること頗《すこぶ》るふかし。願はくば、死せむ後も、太守が江戸表参覲の節には、御行列を地下にて拝し、御武運を護らんと思ふなれ。その故にわが遺骸は街道の往還に向つて葬るべし。 [#ここで字下げ終わり]  武蔵の心は、そこにあったのである。細川家の寵遇に対して彼がいかに感銘していたかも思《おも》い遣《や》ることができる。同時に、当時の侍の通念である「武士道の完璧」が最期の死に至って完成し、その対象とする侍の奉公というものは、生存中だけの主従関係に止まらず、死後においてもというほど強いものであったことを、ここに見届けておく必要がある。 [#1段階大きい文字]   薄縁逆境の人  武蔵が歿《ぼつ》したのは正保二年の五月十九日で、同年十二月には僧沢庵も逝去している。武蔵の歿年は、六十二歳ともいわれまた六十四歳であったとも伝えられ二説確定していない。  誰も知っている通りに、武蔵はその余生を熊本の城下に送り、当時の英主細川|忠利《ただとし》に晩節を捧げていた。武蔵と忠利の間がらは、本来単なる主人と家来というような関係ではない。もっと深い心契《しんけい》の知己《ちき》で、名目を客分として熊本に身を寄せていたのであった。  彼が、その忠利に招聘《しようへい》されて熊本へ来た年の寛永十七年は、島原の乱後わずか三年目であった。孤高独行、故郷や肉親の縁も薄く、生涯を雲や水にまかせて流寓《るぐう》をかさねて来た武蔵も、もうその時は五十歳の半ばを過ぎ鬢髪《びんぱつ》には白い霜が見えていたであろう。  細川家へ落着いた寛永十七年から歿年の正保二年まで、彼の余生はその間わずか五、六年しかなかった。寔《まこと》に短い期間であった。しかし、武蔵の全生涯を通じて、一所安住の境遇にあったらしく見える生活は、実にその短い熊本時代の五、六年しかなかったのである。それだけにまた彼は一層深く、忠利の知遇を心からありがたく感じたに違いない。彼が、細川家から与えられた千葉城址の屋敷で、静かな冬の日の陽を南縁に受けて安らいでいる姿には、身に浴びているその太陽の光までが、忠利の賜物《たまもの》として、温かく、体から心に沁《し》み入っていたであろうように察しられるのである。  ところが、その細川忠利との間も、実際はわずか二年足らずしかこの世になかった。なぜならば武蔵が知遇を受けたすぐ翌年三月に忠利は五十六歳の惜しい年齢で世を去ってしまったからである。  乱世に呱々の声をあげ、中国山脈の美作《みまさか》国の一山村に育って、その家郷を離れてから死に至るまで、およそ宮本武蔵という人は、肉親や知己に恵まれない人であった。養子はあるが、妻子はなかったし、晩年の知己と頼んだ細川忠利ともかく薄縁で別れてしまった。もし武蔵をしていわしめたならば、一生涯の中で自分が最も悲痛に打たれて落胆した時は、その忠利公と別れた時というであろうと察しられるのである。いずれにせよ、彼は生涯逆境の人であった。しかしまた、逆境が彼の剣と心業とを不断に磨《みが》いて円明《えんめい》二|天《てん》の澄徹《ちようてつ》した境地を大成させたともいえると思う。 [#1段階大きい文字]   泰勝院へ  碑前を去って、私たちが自動車へ戻りかけると、その前から私たちの後ろに佇《たたず》んでいた三名の慇懃《いんぎん》な老紳士と袴《はかま》を着けた青年が側へ寄って来て、 「龍田山の泰勝院《たいしよういん》へお廻りになりませんか」  と、物静かに訊く。  泰勝院というのは、武蔵が晩年の心友であった春山和尚《しゆんざんおしよう》のいた寺であるし、その春山和尚が武蔵の棺を巨きな石の上にのせて引導したという引導石もあるそうだし、廻って見てもよいと考えたが、私は観光局や市の吏員に引廻されている身なので、その人達の今日のプランを計りかねて答えずにいると、 「もしお廻りになるなら、これから御案内いたしますが」  と、前の三名の人達が、自分たちの乗って来た自動車へ私をすすめてくれる。  だが、泰勝院は細川家代々の霊廟《れいびよう》がある菩提寺で、現在はそのまま、細川家の別荘となっており、平常は門を閉じて誰にも見せないと聞いているので、観光局長のK氏もひそかに、どうかなあ? というような顔をしていたが、やがて自動車を駆って、熊本の市街地近いそこを訪れるとあらかじめ通じてあったものか、別荘番の園丁《えんてい》がすぐ門を開けて、私たちを中へ招じ入れてくれた。 [#1段階大きい文字]   政剣一如  武蔵が、細川家に晩生を託《たく》した意中は、ただ老後の安養を貪《むさぼ》らんがためでなかった。彼の胸の中にはむしろ壮年時代より大きな抱懐があったのである。  忠利と彼とが百年の知己の如く結ばれた契機《けいき》というのも、武蔵が抱いていた多年の志望がこの英君の認める所となった点にある。その志望とは彼が五十年来の剣の道から大悟して得た真理にもとづいて、その所信を治国経世《ちこくけいせい》の実際に、行ってみたいという念願にあったのである。  治民経国の学問——政治の理想と、剣の道とどこに合致するものがあるかと、或は疑いを抱く人もあろうが、柳生流の大宗、柳生石舟斎宗厳も、常に子弟に云って、 「わが流は天下を治むるの兵法ぞ」  と、末枝の勝敗にのみ走ることを誡《いまし》めていたし、また、その子の但馬守|宗矩《むねのり》に師事した将軍家光も、 「天下統治の大法は吾れ宗矩について其の大要を得たり」  と常に語っていたということである。  その宗矩が、諸侯に剣道を授ける時には、「見国之機《けんこくのき》」という言葉を非常に大事に説いていた。即ち、一国の情勢を観、世の治乱興亡の活機を敏察する心術を、剣に依て悟らしめたのである。  それらの達人の理想するところを窺《うかが》ってみると、一国の経策《けいさく》も、一剣の修行も要するに同じもので、政剣一如という高所を目がけていたものである。  誰の語であったか、古来剣の六則としていわれてきた言葉にこういう一章がある。 [#ここから2字下げ] ——庶人是を学べば則ち家を治め、君子是を学べば則ち国を治め、天子是を学び給へば即ち天下を治め給ふ。庶民より王侯君子にいたる総て其の道たるや一 [#ここで字下げ終わり] [#1段階大きい文字]   緑苔低徊  それはそうと私は今、武蔵塚で話しかけられたまったく不見《みず》不識《しらず》の三名の案内者と、観光局長以下市の吏員たち、また東京以来同伴しているN画伯などの同勢七、八名でどやどやと、今は細川氏の別業となっている泰勝院の門内へ入って、寂《せき》とした緑苔《りよくたい》の庭に立っている。  かつて人の足に踏ませない苑内《えんない》なので、ここの庭苔《にわごけ》は実に眼醒《めざ》めるばかり鮮やかであった。苔の香いというものを私はここで初めて咽《む》せるほど知った。京都や奈良辺りの名園にもこんな苔の見事な庭は見たことがない。 「これをお穿《は》きくださいまし」  と、カーキ色の洋袴を穿いて手拭をバンドに挟んでいる除隊帰りのような留守番の園丁《えんてい》は、下駄ばきの連れの者に、草履《ぞうり》を与えてから案内に立った。  旧《もと》は庫裡《くり》でもあったらしい古い建物の裏を通って、飽くまで苔《こけ》深くつづく低い石段を、山にそって少し登ってゆく。この泰勝院は前にもいったとおり龍田山の麓に拠っているので、今私たちの登っている石段や崖道は、もうその山の一部にかかっているらしい。  急に冷《ひ》んやりと山蔭の寒さを覚えた。疏林《そりん》で囲まれた落葉の平地に、幾つかの墓標がわびしく見える。中には楕円形の大きな玉石の碑が、訪《と》う人もなく苔に埋もれていた。近づいて苔の凹《くぼ》みを探って見ると、 [#ここから2字下げ] 寛文十三年丑正月一日   春山禅師 [#ここで字下げ終わり]  と微かに読まれた。  何と往生日のよい和尚であろうか。生前武蔵と莫逆《ばくぎやく》の友であったというこの和尚は、武蔵の死後二十七年目の正月元旦に死んだものとみえる。 [#1段階大きい文字]   樹語石心  正保二年の二月頃から武蔵は病床についた。そして新緑の四月頃、もういけないと自覚すると、彼は恩顧になった人々や友人に遺物《かたみ》分けなどして、残る思いもなく、別離を告げている。その中には春山もあった。春山へは日頃のよしみに、送葬の事を依頼したであろう。葬儀は藩葬とされて、国主の名代も立ち家中の諸士も列し、漂泊流寓《ひようはくるぐう》の一剣士としては、未曾有《みぞう》の盛儀の下に行われたが、その折、法要万事は大淵《だいえん》がさしずしたが、引導の役は、弟子の春山が執った。  現今、泰勝院での馬場筋とよぶ所に、引導石というのが残っている。春山が引導を渡す時、武蔵の柩《ひつぎ》を、その石の上にのせて式を執り行ったというのである。  なぜ本堂の霊壇で引導の式をやらなかったであろうか。引導とあるからには本堂で大淵がやって、また、寺内の石上で春山が二度も重ねてするわけはない。私はこの話は非常にふかい意味を持っているのではないかと思う。遺跡文献の甚だ乏しい武蔵の伝記検討には、こんな一|些事《さじ》に見える事がらでも、古人の胸底をさぐる秘鍵《ひけん》として、私には簡単に看過《かんか》することができないのである。  樹下石上は、武蔵の生涯の席であった。居宅に望む心なしという言葉だの、心常に兵法の道を離れずという言葉だの、彼が座右《ざゆう》の自戒とした「独行道」の箇条を見ても、彼の生活がどこに帰着をおいていたか窺《うかが》い知るに充分である。  細川藩の客分となって、千葉城址の高爽な住居に、余生を送る身となっても、武蔵のこの生活態度には、少しの変りもなかったのである。いやそうなればなる程、彼は青年時代からの氷雪の修行や、山野の漂泊を顧みて、身を畏れていたことと考えられる。  加うるに、老後、細川家の恩寵の厚きを思い、死に際しては国君の名代として、枕頭に慇懃《いんぎん》の使者を賜わることも幾度とあっては、いよいよ彼は恐懼《きようく》して冥加《みようが》に感涙したであろう。君公藩臣、知己朋友《ちきほうゆう》すべて孤独な客心から観れば、一人として恩人でない者はないという気もちもわいたことであろう。そういう人々の手に依って、厚く葬られる死後の身を考えると、武蔵の謙譲《けんじよう》な気もちは、ただただ勿体ないことと思い、自己の柩《ひつぎ》を金碧《こんぺき》の霊壇に上し、諸士の拝を受けることは、そのいわれもないし、固く辞退したいとも心に願ったのではあるまいか。で、日頃親しい年下の春山に向って、 「わしが死んだら、わしの柩は、御身とよく腰かけて禅話をやったあの石の上にでも乗せてお身が引導をわたしてくれればそれで結構だ。ただ、遺骸には六具の甲冑を着せて、それを君公の御参覲《ごさんきん》遊ばす街道のかたわらに埋めていただければ辱《かたじけな》い。生前の御恩にこたえ、せめて、地下から細川家の御安泰をおまもりしたいから」  という程度の遺言をしたものと、私には考えられる。武蔵の生活や四囲の事情など、いろいろな方面から推してみて、現存している引導石は、非常に意味のふかい、また武蔵最大の遺物《かたみ》として興味のあるものだと思った。 [#改ページ] [#2段階大きい文字] 小倉紀行 [#1段階大きい文字]   小倉碑  武蔵餅という看板が目につく。甘酒だの五目飯《ごもくめし》などひさいでいる腰掛《こしかけ》茶屋で、そこは門司《もじ》から小倉《こくら》への中間ぐらいな大道路の傍らで山というほどでもない小高い丘の登り口にある角店である。  その前に、自動車をおいて、私たちは延命寺山へ登って行った。閑静な住宅地のあいだに、土産物屋だの茶店など入り混んでいる坂や石段を踏んで行く。  桜の木が多い。上は小公園になっている。冬なので私たちのほかに人影もなかった。茶店もあらかた閉《し》まっている。その茶店と茶店の二軒に挟まれて、崖《がけ》の下の低いトタン屋根と並んで、巨大な平石が屹立《きつりつ》していた。何となく台石へ登って背競べを唆《そそ》られるような高い碑である。それが、武蔵の死後九年目の——承応三年に養子宮本伊織が建てたという著名な武蔵碑なのである。  台石を除いて、高さ一丈三尺余、横幅は広い部分で六尺から四尺ほどあるという。仰ぐと、碑面の上部に大字で、   天仰   意相   円満   兵法  と劃彫りに記してあって、その下部一面に、約千二、三百字の春山和尚の撰文が刻《きざ》んである。  碑文は余りに有名だし、多くの武蔵関係書にも紹介されているからここには略しておくが、上部の八字の題字には、武蔵の円明二刀の心境がよく象徴されていると思った。この碑も、明治二十年前までは、小倉城下の田向山《たむけやま》の宮本家菩提所にあったものを、同地に陸軍の砲台構築が計画された折、ここへ移し換えられたものだという。  その石碑移転の際に、人夫が碑の下を発掘したところが地下から備前焼の大甕《おおがめ》が出て来て、甕の石ブタを取り除《の》けてみると、端坐した人間が、在世の姿のまま澄んだ水に浸《ひた》っていたという話が残っている。  この話は、そう古くないことだし、前述の田向山というのは、小倉街道の——この地方称では鳥越街道という往還にも当り、参覲交代の諸大名が通過の折など、その供槍の者が槍を伸ばして碑の高さを計ったものだとかいう伝えもある。そして小笠原家の家臣宮本伊織が拝領して碑を建てた土地なので、拝領山ともよばれ、同家累代の墓所もそこにあったという。とにかく由縁《ゆかり》ある土地ではあるし、かたがた、無根な話とも思われないのである。  それらのことを今、私がここに云い並べるよりは、小倉郷土会の主催にかかる「武蔵座談会」の席で、同地の郷土史研究家たちへ話した地元の古老向井氏の談の一節のほうが、遥かに分りよいし、実感も伴うわけだから、無断ながらここに引用さしていただくと。 [#ここから2字下げ] (向井老の談) ……あの碑を田向山から今の延命寺へ移転いたしました当時、私はちょうど区長を務めておりました関係から、知っとるだけのことをお話致してみますが、明治二十年にあそこへ砲台を建設するために、碑を掘り出したのであります。それに使った男が二人、ひとりは金ひとりは仙と申しました。  座談会へ出て話せというお話がありましたので、昨日私は、その二人の家を訪ねて行ってみましたところ、二人とももう故人となり、そのうちの仙の息子に会いまして、訊ねましたところが、何も記憶はないが、その時拾って帰ったという一文銭を保存していると申しまして、此処に持参したものを貸してくれました。(青錆となった古銭の破片二、三を示す)  私もその当時の職掌がら、多少お世話もし、報告を受けていたわけでありますが、何でも碑の下を掘ったところ二つの大甕が現われて、その一つの石ブタを開くと、大たぶさ[#「たぶさ」に傍点]を結び、紋服を着た大男の遺骸が、澄んだ水に浸っていたが、外気に触れると間もなく崩れたようになってしまったといって騒いだことは、今にたしかに記憶しております。何分、大きな墓石のこととて、移転は大仕事でした。第一運搬する道から拵えてかかったくらいで、人夫も相当たくさん使いました。当時女人夫は一日八銭、男が十二銭ぐらいであったと覚えております……云々。 [#ここで字下げ終わり]  甕は二つ出たとある。甕の一つには人間がはいっていたとして、もう一つの甕には何がはいっていたろうか。もしや武蔵の遺品などではなかったろうか。あったとしたらどうしたか。  そういった席上の質問に対して、向井老が答えた所を綜合してみると、はっきりは覚えていないが、宮本家の子孫も親しく立会ったことではあるしするから、遺品などが出たとすれば粗略にする筈はなく、これは多分確かと思うが、新しい甕の中へすべてを収めて、移転した延命寺山に建碑し直す時、新規の場所の地下に埋《い》けたことと覚えている——というのである。  それからまた、先に出た古い大甕の処置については、 [#ここから2字下げ] (向井老談) ——何か入っていたとは聞いていましたが、それが何であったかは詳しく記憶しておりません。甕だけは、私が些細な代金で買取り、現に私の甥の家にあります。もう一つは当所の伊東家に保存してあるかと思います。 [#ここで字下げ終わり]  とも語っている。  私を案内してくれた朝日の支社の人たちも、その話は信じているらしく、大甕を見た人の鑑賞に依ると、それは昔、水甕として使われたこの地方でいうハンド甕と称する種類の焼物だということであった。  ここでただ怪訝《いぶか》られるのは、遺品だけならよいが、大甕の中に紋服で端坐していたという人間の遺骸はいったい誰か、という疑問である。  武蔵の終焉《しゆうえん》の地熊本には、武蔵の遺骸を葬ったという武蔵塚がすでにある。また田向山《たむけやま》の碑は、歿後九年の後の物だし、掘起した人夫の話の「大たぶさ[#「たぶさ」に傍点]に結っていた——」ということをそのままとすれば、それは晩年の武蔵その人の結髪とは元より受けとれない。  けれど小倉の地方には、武蔵の遺骸は、歿後養子の伊織が迎え取って、田向山の菩提所に葬ったので、熊本のそれは分髪の墳墓であるというような説も一部にあることはあるのである。  細川家と小笠原家との姻戚関係だの、また、小倉の大淵和尚と、熊本の春山和尚との師弟関係だの——なお、武蔵を養父とする宮本伊織が小倉藩の家老であったなどの密接な点を考えてゆくと、いずれにせよ武蔵の遺骸問題もなかなか、そう簡単にどことも断定はできないものがあるように思われる。 [#1段階大きい文字]   春山和尚考  ここで、碑の撰文を書いた人でもありまた、武蔵とは生前の交友蜜の如くであったという熊本の春山和尚とは、いったいどういう人か、一応|糺《ただ》してみたい気がしてくる。  従来、熊本の顕彰会本の記事でも、その他の研究家の手になった書でも、武蔵と春山とは、道契浅からぬ間がらであり、晩年無二の親友であったというのみで、この僧の法系も人物もいっこうに明らかにされていない遺憾がある。  で、私はまず、春山の法系を知ろうために、熊本の細川家菩提寺の泰勝寺を訪れた際も、同地の智識にも、かなりたずねてみたが、泰勝寺第二世の名僧だったという以外にはよく分っていない。  鷲尾博士の仏家人名辞書その他にも、春山の名は見あたらない。禅家の正称でなく別号があるのかもしれないが、今日までは私にもまだ手懸りがないのである。ただ、泰勝寺第一世大淵和尚の法弟であったことは明白だ。それと大淵が、細川家の移封と共に、小倉から連れて来た者だろうという程度の推測まではつけてもいいかと思う。  法系的に見てゆくなら、春山その人を知るには、春山の師大淵とはどんな人かを調べたほうが手近である。  なぜならば、大淵の禅林における地位、または細川家との交渉はほぼ分明しているからだ。  大淵は、花園妙心寺統《はなぞのみようしんじとう》の天猷門下《てんゆうもんか》で、丹後《たんご》田辺《たなべ》に大泉寺を開いた戦国の傑僧琢堂《けつそうたくどう》の法嗣《ほうし》の一人であった。琢堂の衣鉢《いはつ》をついで、傑出した弟子は二人あって、ひとりを別源《べつげん》といい、この人は丹後宮津に行って国清寺を興し、大淵は細川家の招聘《しようへい》をうけて、小倉からやがて肥後に移り、現在の熊本にある細川家菩提所の泰勝寺を開いてその一世となったのである。  泰勝寺の山号はいうまでもなく、細川家の中祖細川|藤孝《ふじたか》(幽斎)の泰勝院徹宗玄旨《たいしよういんてつそうげんじ》の法名から取ったものであるが、その細川幽斎と妙心寺禅林とのあいだがらは、ずいぶん密接なものだったらしい。  もっとも幽斎よりずっと以前の細川|管領《かんりよう》時代から、管領三家と妙心寺とは、ただの大檀越《だいだんおち》であるのみでなく、政治的な意味でも深く結ばれていた間であったが、幽斎の細川藤孝が織田信長に随身してからは、一層その間の使命は緊密となっていた。  武門と禅林との交渉は、その多くが裏面史的なものであったことは、禅林の性質上、当然であって、同時にそれを闡明《せんめい》するにはずいぶん複雑な内情と事例を示さなければならないので甚だ煩わしいが、今、妙心寺史の「法山の寺統と外護」の一節を取ってくると、こういう一例を語ることができる。  足利幕府の崩壊を前にして、三好細川の乱の後、将軍|義昭《よしあき》をたすけて、それを織田信長に委嘱した人は誰も知るが如く幽斎細川藤孝だった。  藤孝が、信長へそれを計る前に、彼は若州小浜《じやくしゆうおばま》の武田にもそれを図っていたし、そこで事成らず、転じて越前の朝倉義景《あさくらよしかげ》へ相談に行ったものであった。  義景も、容易に藤孝のすすめを容れなかった。ところが、朝倉家の客臣に、ひとりの異材がいて、共に謀《はか》って藤孝へすすめていうには、 「それを成就する大器の人は、尾張の織田信長なる者以外に人はない」  とのことだったので、共に奔《はし》って尾張に到り、信長に説いて、遂に快諾を得たものであるという。  その機縁と明察をもって将来を見通した朝倉家の客臣は、明智光秀であった。美濃《みの》の斎藤家|紛乱《ふんらん》の後、明智城をのがれて、越前へ避けていた当時無名の光秀だったのである。  光秀と藤孝との知遇などは、従来の伝記としての明智光秀の履歴には見出されないことであるが、そういう史証が真偽はとにかく、禅門の法燈史などから出ているところに、かえって正面から史実として出されているものよりは真実性もあり史的性質のおもしろさもある気がする。  話は反《そ》れたが、その細川藤孝が織田家に随身することとなってから、藤孝は信長にすすめて、大心院の再建を図り、自領の丹後から木材を取寄せたり、寺領を寄進したりしている。当年の木下藤吉郎などもまた、同様な寄附状を大心院へ宛てている。  大心院は、信長の妹婿《いもうとむこ》である滝川|一益《かずます》の創建であって、その一益の一族明叔という者が二世に坐っていたのである。そんな関係から、明叔と藤孝、藤孝と一益、等々の輪環的な関係が信長を中心として、時には姻戚関係がむすばれ、時には政治的な動力を生みなどして、漸次、親密の度を加えて行ったもののようである。  信長歿後の、妙心寺と藤孝の関係や、藤孝歿後の細川家との交渉やらを細述して行ったら限りもないからやめるが、とにかくそんな風に、幽斎藤孝の終った後も、三斎忠興、それから武蔵の知遇を得た忠利の代までも、その法系と藩とは、幽斎在世の当時ほどではなくても、中祖の菩提所を通じて、変らない関係にあったことだけは認められよう。  で、その檀林から、大淵が藩へ招かれたことも、極めて自然なのであるが、大淵の弟子として、春山和尚のあることは、妙心寺史中にもふしぎと出ていないのである。あるいは「延宝伝燈録《えんぽうでんとうろく》」などの審《つぶ》さなものを調べたら、記名ぐらいは見出されるかもしれないが、とにかくその事蹟とか人間については、ほとんど見当るものがない。  かえって、大淵の法孫として、性天《せいてん》という僧のほうが有名である。大淵の法孫に性天あり、その名、法山に轟《とどろ》く、とは妙心寺史にも見える記載である。  性天は、学匠として聞えていた。和州南都の人で、詩文に深く、草書を能くし、泰勝院細川幽斎公のために、宝永年間、虚堂録《きよどうろく》を提唱《ていしよう》し、また、折中録は一世に行われた良著だともいわれている。そのほか語録三冊、含虚外集《がんきよがいしゆう》等の著述もあり、元禄から宝永の半世を熊本の泰勝寺に位して、寿六十九で同地に終っているという人である。——もっとも死んだ場所は肥後城東の神水、湘陰寺《しよういんじ》で寂《じやく》したとなっている。  こうしたふうに大淵その人も、大淵の法孫の事歴も、ほぼ明白なのに、なぜ大淵の法嗣をうけて泰勝寺の二世に坐った春山の人間も事歴も、晩年の宮本武蔵と親交があったということを除いては、いっこうに分っていないのだろうか、不審といえば不審だが、また、考えように依って当りまえといえば当り前な気もするのである。  なぜならば、これは自分の私見からいうのであるが、小倉碑文の有名になったことや、武蔵の道友であったということなどから、春山和尚の名は、当人の実質以上に余り名僧かの如く引き上げられ過ぎて来たのではあるまいか。武蔵の歿年当時、春山は何歳だったかちょっと今手元の物では突きとめられないが、私が熊本へ行った折、泰勝寺の裏山にある春山の墓石から写し取って来た当時のスケッチブックを見ると「寛文十三年丑正月一日歿」とある。武蔵の歿年正保二年からかぞえるとちょうど二十八年目である。  また、春山の歿したすぐ翌年、延宝二年に(寛文十三年は改元延宝元年にあたる)——弟子観海が亡師春山の肖像を描《えが》いたのが、今でも細川護立氏の所蔵にあるが、その肖像画の容貌を見ても非常に若い。そう老人の像とは見えないのである。せいぜい五十歳台から六十までには届いていない人のように思われる。  武蔵は六十二歳で歿しているから、春山が同年齢に近い人だとすると、寛文十三年の歿年には、九十歳で一つ欠ける老齢になっていなければならないわけだが、弟子観海の肖像画やその他から推して考えてみても、どうも武蔵の晩年在世の頃には、春山はまだよほど若かったのではあるまいかと思われるのである。  その春山が、生前の交誼《こうぎ》から、武蔵の病床を見舞ったり、葬儀に当っては導師の任を執ったり、伊織から委嘱されて、小倉の碑に撰文を書いたりしたため、一躍、高名となり、また武蔵の晩年の道友とか、莫逆《ばくぎやく》の友とかされて、武蔵と対照すべく、彼をも無意識に、高くしてしまったのではないかと思う。そこで私が密《ひそ》かに考えるには、彼と武蔵との関係は、当年の春山はむしろ求道《ぐどう》の壮年僧で、剣と禅との一道に契合《けいごう》したことは事実でも、実際は武蔵のほうがずっと年長でもあったし、年下の春山は師礼を執るぐらいな態度で接していたもののように観られるのである。あの二人の間が、莫逆の友という言葉はそのほかどういう所から見ても、何となく私には当らない言葉のように思えてならない。  武蔵から見て、自分を慕い、自分に道をただしてくる泰勝寺の若い一禅僧があり、その師大淵は、妙心寺統の一巨僧だし、何かと物分りもよいし、過去の世事談をするうちにも、いろいろ思い合される人々の名も出てくるし、愛すべき壮年僧として、快くこれを迎え、時に剣を語り、禅を会笑し合っていた——というふうに春山その者を仮定して置くならば、春山の人物観も至極気が楽になる気がする。それを、晩年莫逆の友とか刎頸《ふんけい》の友とか重くしすぎると、私にはどうもこの人の禅林における業績と人間的な光彩がもっと何かで見出されて来ないと、そのまま鵜《う》のみに頷《うなず》けきれないのである。 [#1段階大きい文字]   武蔵の肖像画  どうですか、あちらの茶店で少し休んで、甘酒でものみながら、序《ついで》に、茶店のおやじが秘蔵している宮本武蔵の肖像画をひとつ見せてもらっては。——と、碑前に立って、春山和尚の撰文に首を上げたままでいる私へ、朝日支社のN氏がいう。  ——ははあ、そんな肖像画があるんですか。  と私がすぐ足を近くの茶店へ移してゆくと、N氏はあわてて、  ——いや、肖像画といっても、宮本家(小倉の伊織系)に伝わったものの写しだそうですがね。  と、云い直した。  写しでも何でもよい。一見さして貰いたいと私はN氏へ頼んで閉っている茶店をのぞいた。自画像だとか、何処に伝わった物だとかいっても、武蔵の肖像画のほとんどといっていい物がみな伝写物なのだから、私の求めるのは、その題語に何か変った人の書でもないか、或は伝写にせよ、年齢風貌の異なっている物ならば、それからまた、その原図を想像し、武蔵のべつな風貌や年齢などの空想に資することができるが——ということだけに過ぎないのだった。  それと、小倉の宮本伊織の家筋に伝来されて来たという肖像画の真物は、熊本に伝わっている肖像とちがって、赤羽織を着て、長刀を座側の刀架けに懸け、筆を持って坐っている武蔵の坐像であるということをかねがね聞いていたのである。  大小二刀を左右の手にさげて屹立《きつりつ》している立像は、熊本の伝来で、彼の「武」を表象した構図だし、小倉伝来の筆を持っている坐像は「文」の武蔵を現わしたものだという人もある。とにかく、写しでもいいから見ておきたいと思ったので、軒先に佇んでややしばらく待っていると、茶店の奥へはいって行ったN氏がやがて出て来ていうには、  ——いや、とんだ話になりましたよ。死せる武蔵、生ける盗賊を走らす、という標題《みだし》のつけられそうな三面ダネを一つおじさんから聞いてしまったんで。  と、ひとりで哄笑しながら出て来たが、やがて説明していうには、その宮本武蔵の画像の幅《ふく》は、生憎《あいにく》と今はない。実はおとといの晩、泥棒が入って来て、ほかの衣服や何か二、三点の物品と一緒に盗難にかかってしまったのだというのであった。  ところが昨日、警察署へ届け出ると間もなく、他の品物は出ないが、武蔵の幅だけは、電車道の四ツ角に、抛り捨ててあって、往来の者が警察へ届けて来ているから、早速受取りに来いという通知が来た。けれどおやじさんは風邪気《かぜけ》で寝ているし、ばあさんは着物がないとかあるとか、行きつけない警察を億劫《おつくう》がってまだ取りに行かずにいるので——もしお客様がそう御覧になりたいというならば、警察へ行って御覧ください——と茶屋のおやじがいうのですが、どうしますかと、N氏はまたそこで笑って、  ——泥棒先生、何か売れる書画でもあるかと思って、途中で幅を開けてみたところ、眼の凄い赤羽織の侍が、にゅっと出て来たので、きっとびっくりして捨ててしまったものでしょうな。泥棒先生のその時の顔を想像すると、どうもおかしくって堪らない。  と、腹をかかえる。私たちも茶屋のおやじへ気の毒を感じながらも、思わず笑って、まさか警察まで行くのも変だし、もう午後の汽車の時間に間もなくなったので、雪解けの道を拾いながらぞろぞろ延命寺山を降りて行った。甘酒すら売れない冬の山へ、何をしに何を見に、いったいやって来て、寒そうにいつまで石など仰いで行ったのだろうと不審がるように、近所の住宅の奥さんが、蒲団の干してある二階から私たちを眺めていた。 [#改ページ] [#2段階大きい文字] 逸話の宮本武蔵 [#改ページ] [#1段階大きい文字] はしがき  宮本武蔵の生涯の逸話だけをここに拾ってみる。古人の逸話というものの中には、口碑、伝説、史片、曲歪、真偽さまざまであるが、その玉石混淆《ぎよくせきこんこう》のうちに、自らその人の真の相《すがた》が観《み》られるものでもある。それと、古人の在世中から死後にかけて、世間の輿論的な人物評価が漂っている点もあるので、逸話の集録だけを読んでも、そこに一つの伝記が窺《うかが》えるかと思う。  逸話の上から観ると、武蔵の事蹟は、故郷にいた少年時代と、晩年の熊本時代に多く遺されている。それから考えても、中年期は住所を定めず、漂泊《さすらい》の修業をつづけていたことがわかる。ただ吉岡一族を相手としての一乗寺下り松の決戦と、佐々木小次郎との巌流島の試合は、共に青年時代の流寓中《るぐうちゆう》の事件であるが、一世を震撼《しんかん》させた事件なので、かなり詳細にそして後世まで伝聞されたものと思われる。  しかし、右の二事件は、余り有名であるし、逸話というよりは物語になるから、ここにはわざと省《はぶ》いておく。 [#1段階大きい文字]   二本の撥  幼い武蔵は、村の荒巻神社の境内へ行ってはよく遊んでいた。(この神社は現在も、岡山県英田郡讃甘村宮本に現存していて、宮本家の旧宅の跡といわれる石垣と小川一つ境にして隣り合っている)  或る時、そこの神楽殿で、楽師たちが太鼓《たいこ》を打っているのを見て、幼い武蔵は、奇異な眼をかがやかして、  二本の撥《ばち》から、一つの音が出る——  という当り前なことに、大きな疑問を抱き始めた。  それと、右|利《き》きとか、左|利《き》きとか、これも人間が当り前に思っている習性の通念を破って、左右二本の撥が、少しの高低もなく一律の音波となって太鼓から鳴り出す微妙な動作に、 「これだ、これだ」  と、二刀の原理を、それが暗示となって、工夫し得たというのであるが、この話は、今も宮本村では信じられているが、幼少時代のこととしてはどうかと考えられる。  二刀流を工夫した動機としては、ずっと後に、播磨飾磨《はりましかま》の海岸で、大勢の漁夫と格闘した際、片手に刀を持ち、片手に櫂《かい》の折れを持って戦ったのが導因だという説もある。その話は、杉浦国友の武蔵伝に詳しいが、どっちが真実ともいわれない。 [#1段階大きい文字]   三ツ子の魂  剛毅《ごうき》で天才的な少年武蔵は、常に父の無二斎をも蔑《ないがしろ》にする風があった。  日頃、武蔵のこの態度を慊《あきた》らず思っていた無二斎が、ある時、楊枝《ようじ》を削《けず》っていた小刀を、ひと間《ま》距てた武蔵めがけて擲《な》げつけた。すると武蔵は、軽く面をそむけて躱《かわ》し、にこと笑って見せた。そして小刀は背後の柱に突っ刺さっていた。 「父の兵法を侮《あなど》るかっ」  と無二斎が怒《いか》って、重ねて手裏剣を投げつけたが、武蔵は、それをも平然と躱《かわ》して、ぷいと家を飛出してしまったまま、幾日も帰って来なかった。  父子の間に、かほどまでな確執《かくしつ》は信じられない気もするが、少年武蔵の不逞《ふてい》な面魂《つらだましい》は想い見るべきである。 [#1段階大きい文字]   喜兵衛の最期  一説に、武蔵は父の勘気を得て、播磨の一僧庵に身を寄せていたということである。  新当流の兵法者有馬喜兵衛が矢来を構え、金磨きの高札を立てて、他流試合の相手を求めたと伝えられるのは、この頃のことである。  手習の帰途、この高札に目をとめた悪童武蔵は、手習筆を以って墨くろぐろと塗りつぶし、宮本弁之助(武蔵の幼名)が挑戦する旨を大書して、僧庵に帰った。  その夜、喜兵衛の使いが、僧庵を訪れて試合|応諾《おうだく》を伝えたので、初めて事の次第を知った庵主は胆を消し、 「小忰《こせがれ》の悪戯《いたずら》ゆえ、なにとぞ深くお咎《とが》めなく容赦《ようしや》されたい」  と百方陳謝した。  が、喜兵衛にしても、高札を塗りつぶされたからには、武芸者としての面目上、黙って引き下がるわけには行かない。折衝《せつしよう》の末、庵主が矢来の前へ弁之助を伴い、衆人の前に無礼を詫びることになった。  明くれば、弁之助挑戦の趣《おもむき》を伝え聞いて、矢来のまわりは盛んな群集であった。 「さ、早くお詫びするのじゃ」  庵主が命じる。頑童《がんどう》はしばし黙然としていたが、突如、持ち来った棒を揮《ふる》って、喜兵衛に襲いかかったのである。  火のような怒りを発した喜兵衛は、太刀を抜き放ってこれに応ずる。と、矢庭に、弁之助は棒をすてて喜兵衛に組み付き、巌石落《がんせきおと》しに大地に叩きつけた。起き上がらんと|※[#「足+宛」、unicode8e20]《もが》くところを、ふたたび棒を拾って、滅多撲《めつたなぐ》りになぐりつけた。  喜兵衛は、勿論、血反吐《ちへど》をはいて、絶息してしまった。  諸書みな、武蔵十三歳の時と伝えている。 [#1段階大きい文字]   殺竹に跳ぶ  関ケ原出陣前といえば、十六歳から十七歳にかけての頃であろう。  武蔵は同輩《どうはい》二、三とうち連れて、附近の山野を遊行しているうち、とある断崖の上に出た。高さは二間ばかりと覚しく、下を覗いてみると、あたかも小竹原を伐《き》り払った跡らしく、削ぎ立った夥《おびただ》しい切株が絶好の鹿砦《ろくさい》を形造っている。 「もしこの下を敵が駈け通らば、御身達は如何にするか」  武蔵が問いかけた。同輩達は口を揃えて、 「この夥しい殺竹《そぎだけ》では、足もとが危なくて、敵の後を追うこともかなうまい」  と答えた。  武蔵はこれを聞き、忿懣《ふんまん》の色を面に現わしたかと思うと、さっと身をひるがえして、断崖を跳《と》び下りた。殺竹で足を突き抜いたことは、いうまでもない。 「何故、かかる無謀な振舞いをするのか」  駭《おどろ》き呆《あき》れる同輩の詰問《きつもん》に対して、武蔵は、 「上へは飛び立てぬ人間も、下へは、幾丈幾十丈ありとも跳び下りることが出来る。御身達が殺竹を怖れて、敵を追うこともかなわぬといわるるが心外ゆえ、傷つくとは知りつつ跳び下りて見せたのだ」  と答えたという。 [#1段階大きい文字]   達人と達人  尾張の城下を歩いていた武蔵は、一人の武士とすれ違いざま、 「久々に、生きた御人にお目にかかるものかな。其許《そこもと》は、柳生兵庫殿にては在《おわ》さずや」  武蔵の言葉に、武士はにこと頷《うなず》いて、 「如何にも私は柳生兵庫——。そう仰せあるあなたは、高名な宮本武蔵殿ではおわさぬか」  と答えたという。  両士は忽ち、百年の旧知の如く打ちとけ、兵庫の屋敷に同道して、酒盃を汲《く》み交わし碁を打ち興じて、滞留久しきに及んだが、遂に一度も、剣技を試みるところはなかった。  武蔵は後にこの時の心境を説明して、何故一見して兵庫と認めたかは、心機の妙、理外の理であって、言葉には表現し難い。また、二人が、剣を交えなかったのは、敢《あえ》てそれに及ばなくても、充分お互いの腕前が暗黙のうちに分っていたからである、といったそうである。 [#1段階大きい文字]   都甲金平  武蔵の人物を見る眼識は、なかなか優れていたらしい。晩年、肥後藩に身を寄せてからも、次のような逸話が残っている。  一日、武蔵は主君忠利公に向って、 「家中剛毅の士多き中にも、只今、殊に器量抜群の人物を見受け申した」  と言上した。 「誰か」  と、忠利公が興深げに問う。 「名は存じませぬ」 「では、ここへ伴《つ》れて来て見ぬか」  座を立った武蔵が、少時《やや》あって伴《ともな》い来ったのは、都甲金平《とこうきんぺい》という藩士であった。  後年、江戸城修築の賦課《ふか》が諸侯に命ぜられた時、肥後藩においては都甲金平が宰領《さいりよう》して事に当ったが、なにかの行き違いから、都甲金平に石盗人の嫌疑《けんぎ》が懸り、幕府の獄に投ぜられた。  日夜、言語に絶する拷問《ごうもん》が加えられたが、金平は毅然《きぜん》として潔白《けつぱく》を主張し続けた。そして遂に冤《むじつ》として放免せられた事件があったが、この時の拷問に耐えた金平の態度は、実に壮絶を極めたものらしい。  彼は心胆《しんたん》を煉《ね》るため、毎夜、細糸を以って白刃を天井につるし、その下に眠るのを常としたという。  英雄、英雄を知るというべきであろう。 [#1段階大きい文字]   泥鰌を捕る少年  ひと年、武蔵は出羽の国を旅していたが、正法寺ケ原へ差しかかると、路《みち》ばたに泥鰌《どじよう》を捕る十二、三歳の童《わらべ》があった。 「今宵《こよい》の糧《かて》に、少し分けてくれぬか」  武蔵が声をかけると、童は快《こころよ》く手桶《ておけ》を差し出した。武蔵は手拭を取り出して、少しばかり包もうとする、童はそれを見て、 「折角旅人が乞わるるに、何を物惜しみ申すべき——」  と、手桶を置いたまま、すたすたと立ち去ってしまった。  翌日、曠野《こうや》の只中に行き暮れた武蔵が、如何せんと辺りを伺うと、遥か彼方に仄《ほのか》な灯影《ほかげ》が見られたので、近づいて見れば、軒傾いたいぶせき藁屋であった。 「行き暮れた旅の者、軒先なりとお借り申したい」  武蔵が案内を乞うと、 「昨日、泥鰌《どじよう》を所望された修行者にては在《おわ》さぬか」  と云いながら出て来たのは、正しく泥鰌取りの童《わらべ》であった。  怜悧《れいり》な少年は奇遇を喜び、薪をくべ、粟飯《あわめし》ながら夕餉《ゆうげ》をもてなす。  夜更くる頃、刃《やいば》を磨《と》ぐ音に眠りを破られた武蔵が、 (さては彼の童、夜盗の一味にてもあったか)  と、殊さら大きな欠伸《あくび》をすると、次の間の少年は快《こころよ》げに笑って、 「刃を磨ぐ音に眠れぬとは、さても見掛けによらぬ臆病者じゃ」  という。 「怖ろしさに目を覚ましたわけではないが、何故この夜更けに、刃を磨ぐのじゃ」  少年は武蔵の不審に答えて、実は昨夜老父がみまかり、裏山の母の墓に並べて葬《ほうむ》ろうと思うが、一人の力では屍体《したい》の持ち運びがかなわぬゆえ、これを挽《ひ》き割らんと思案したのであると答える。  武蔵は童の胆力《たんりよく》に感じて、共に手伝って、屍体を裏山へ運んで厚く葬ってやった。そしてこの孤児の胆力と怜悧《れいり》を愛して、永く手許に養い、遊歴中も連れ歩いていたそうである。 [#1段階大きい文字]   武蔵の風貌  武蔵は幼少の頃、頭に疔《ちよう》という腫物《はれもの》を病んだことがある。そのため月代《さかやき》を剃《そ》ると醜いといって、生涯、額《ひたい》を剃らずに、髪はいつも総体《そうたい》に伸ばしていた。  また、彼の眸《ひとみ》は、茶褐色をしていて、琥珀《こはく》のように時折光った。眸が茶色をしていたという異相の人には、法然上人にも同じ云い伝えがある。  それと門人の聞《き》き書《がき》に、体はいつも水拭きにして風呂には生涯入らなかったとあるが、それは晩年の熊本時代のことだろうと思われる。しかし、それについて、武蔵が述懐したという、 [#ここから2字下げ] 身の垢《あか》は手桶の水にてもそそぐを得べし、 心の垢はそそぐによしなし [#ここで字下げ終わり]  という言葉の裡《うち》には、汲めども尽きぬ味がある。 [#1段階大きい文字]   造酒之助の殉死  武蔵は或る時、摂州尼《せつしゆうあま》ケ崎《さき》附近を乗掛馬で道中していたが、ふと、手綱《たづな》を取る少年馬子に注意をひかれた。並々ならぬ器量が、一生を馬子で終わるべき少年とは見えないのである。 「一廉《ひとかど》の武士に育て上げて遣わすが、儂《わし》の膝下《しつか》で修行を積んで見る気はないか」  武蔵の厚意に少年は大いに喜び、「自分には養うべき老いた両親があるゆえ、修行の望みは充分あるけれども、現在《いま》の活計《たつき》を棄てるわけにはゆかぬ」と答えた。  武蔵はその孝心に愈※[#二の字点、unicode303b]感じて、両親を訪れ老いを養うに足る金を与え、少年の将来のためなることを説き聞かせて、吾が家に伴《つ》れかえった。  武蔵の眼力に狂いはなく、少年の武芸学問は衆を超えて進み、後、宮本|造酒之助《みきのすけ》と名乗って姫路の城主本多|中務大輔《なかつかさだゆう》に仕官し、重く用いられるに至った。  その後、造酒之助は故あって、主家より暇《いとま》を賜わり、江戸に出ていたが、中務大輔|逝去《せいきよ》の趣《おもむき》を伝え聞くや、大坂に在った武蔵を訪うて私《ひそか》に永別の盃《さかずき》を汲み、姫路に下って追腹《おいばら》を切って果てたのである。  なお、この時、武蔵は必ず造酒之助が暇乞《いとまご》いに来たるべきことを信じて、 「造酒之助来らば、今生の思い出に、十二分に馳走して遣わそう」  と側近に洩らしていたという。 [#1段階大きい文字]   出雲守参る  武蔵はかつて、雲州松平家で家士と試合をしたことがあるが、八尺余の八角棒を持った強力の者が、書院の階段を下りる武蔵を待ち受けて、一気に薙《な》ぎ倒そうとした。  武蔵は、階段の二段目辺りより木刀を中段に構え、鼻先めがけて、ぐっと切先を突き出したので、のけぞった家士が慌《あわ》てて体勢を整えようとする隙に、難なく打ち倒してしまった。  松平出雲守は、家士の余りの脆《もろ》さに心外の色を現わし、老臣の制止を斥《しりぞ》けて、 「予自ら相手を致す」  と、袴《はかま》の股立《ももだち》を取って立ち上がった。  武蔵は、 「兵法の合点は、自ら試みられることこそ第一なれば、遠慮なくお相手を仕ります」  と答え、二刀を以って出雲守を追い詰め、座敷へ追いあげてしまった。  出雲守はなおも屈せず、上段より強引に撃ち下ろそうとするのを、武蔵がすかさず上に払うと、木刀は二つに折れ、一片は跳ね上がって天井板を打ち抜いた。  出雲守は初めて武蔵の非凡に舌を巻き、礼を厚くして教えを乞うたという。 [#1段階大きい文字]   料理人の生兵法  或る時、小笠原信濃守の邸に、人々の集まった折、武蔵のことが話題にのぼった。勿論、彼の兵法を誹《そし》る者は一人もなかった。  ところが、些《いささ》か腕に自信を持つ一人の料理人が、これを聞いて、 「いかに天下無双の武蔵なりとも、隙を狙って欺《だま》し撃ちに致さば、よも撃てぬことはござりますまい」  と広言した。一座興じて、 「では、今宵武蔵もここへ参る筈ゆえ、見事撃ち取って見せぬか」  と、幾何《いくばく》かの賞金が懸けられたのである。  料理人は物蔭に隠れ、武蔵をやり過ごして置いて、微塵《みじん》になれと背後から木刀を打ち下ろしたが、一瞬早く、武蔵の刀の鞘《さや》が料理人の胸元を突いていたので、 「あッ」  と、仰反《のけぞ》って倒れてしまった。武蔵は四つ五つ峰打ちをくれて、事もなげに座敷へ通る。  やがて、水よ薬よと人々が立ち騒ぐのを聞きつけて、 「何事か」  と、信濃守が尋ねる。 「只今、御前近くを騒がさんとする曲者《くせもの》を見かけましたれば、後日の戒《いまし》めに、軽く打ち据《す》えておきましたまでで」  と、武蔵が云った。  武蔵としては軽く打ったに違いないが、その料理人は一生不具になった揚句、よい笑われ者になった。 [#1段階大きい文字]   飯粒と猫  ある屋敷で、人に求められるまま、小姓の前髪の結び目に、一|粒《つぶ》の米粒をつけ置き、大刀を大上段に振りかぶって、掛声もろとも、見事米粒だけ真二つに切り割って見せたという話も、武蔵のことである。  また或る時、一匹の野良猫が庭を横切ろうとした時、武蔵が室内から振向くと、猫は進退の自由を失って、その場に蹲《うずくま》ってしまった。居合わせた客が、不審に思って訊《たず》ねても、武蔵は笑って答えなかった。 [#1段階大きい文字]   蟻の助太刀  ある日、武蔵に会いたいという少年が来た。会って仔細を聞くと、 「父の仇討《あだうち》を願い出ましたるところ、幸い聴許《ちようきよ》されて、明日某所で勝負を致すことに相成りました。ついては、必勝の太刀筋を御伝授に預りとう存じます」  と、可憐な瞳を輝かせていう。  武蔵は切々たる少年の孝情に感じて、快《こころよ》く二刀の剣法を授け、 「明日試合に臨《のぞ》まば、床几《しようぎ》に腰をおろす前に、必ず足下の地面を見よ。もし蟻《あり》が這《は》いおるならば、汝必勝の兆《きざ》しである。かつ儂《わし》は汝がために、摩利支天《まりしてん》に必勝の祈願を修法しているほどに心措きなく怨敵に立ち向え」  と励ました。  当日に至って、少年が足下を見ると、夥《おびただ》しい蟻である。少年は、 「これぞ大願成就《だいがんじようじゆ》の吉兆《きつちよう》——」  と勇み立ち、武蔵に授けられた秘策をもって、見事大敵を突き殺した。  勿論、これは武蔵の奇略であった。試合の場所に蟻のいることを前以って知っていて、少年の心に自信と勇気を吹き込んだのである。 [#1段階大きい文字]   金力と福力  武蔵には生涯|福力《ふくりよく》が備って、金には不自由しなかったという説がある。  彼は平常、幾つもの木綿袋に金を分けて天井に吊し置き、訪れる浪人者や、武者修行に出る門人達には、 「何番目の袋を路用として持ち行け」  と、いって与えたそうである。 [#1段階大きい文字]   剣と画筆  細川家に身を寄せてから後のこと、ある日、武蔵は、忠利公の命で、御前で達磨《だるま》を描《か》いた。しかし、われながらその不出来なのを嘆《たん》じて、その夜、床に入ってからも種々工夫を凝《こ》らしていたが、卒然《そつぜん》悟るところがあって、起き出でてまた、描き出したということである。  後に門人に向って、「自分の画は到底剣には及ばない。その故は、君侯の命を受けて見事描かんと思う戒心があるからである。しかるに夜中悟るところあって、剣法の心を以って無念無想に描き上げたるに、初めて意に通うものが出来上った」と述懐した。 [#1段階大きい文字]   桿を試す 「旗差物《はたさしもの》の桿《さお》の良否を試しとうござるが——」  と、百本ばかりの竹を武蔵に示すものがあった。  武蔵は無造作に竹の一端を掴《つか》み、一本一本打ち振ったところが、みな折れくだけて、たった一本だけが残ったのである。 「これだけは八幡大丈夫と存ずる」 「如何にも慥《たしか》な鑑定法《かんていほう》なれど、貴殿如き力量人でのうては出来申さぬ方法じゃ」  と、互に呵々大笑《かかたいしよう》したという。 [#1段階大きい文字]   達人老いず  さすがの武蔵も老年に至って、ときに足元の危ないことがあったらしい。  長岡|興長《おきなが》の邸に参会のあった時、武蔵は箱段を上らんとして足元よろめき、袴《はかま》の腰に手をかけて力を入れ、みずから、 「ヤッ」  と、掛声して上ったことがある。  その後、武蔵の屋敷近くに火事があったが、町幅《まちはば》の狭いところなので、屋根から屋根へ梯子《はしご》を渡して、猿《ましら》のように身軽く走り通る者があった。  人々余りの敏捷《びんしよう》さに感嘆の声を放ったが、それが箱段すら危なげに上った武蔵であったので、 「老いても流石《さすが》は兵法の達人よ」  と、人々皆、感嘆したそうである。 [#1段階大きい文字]   寡黙の人  熊本時代の武蔵は、連歌、茶、能、書画等の風流に遊んで、悠々たる閑日月《かんじつげつ》を楽しんでいたが、連歌の会などで、大勢寄り集まって談笑するに、他の人々の声は次の間までも聞えて来るのに、武蔵の声だけは、ほとんど聞こえることがなかったそうである。  敵に向っては鬼神の如き武蔵も、平常は至って寡黙《かもく》で、静かに低声に話したのであろう。 [#改ページ] 本電子文庫版は、吉川英治歴史時代文庫補5『随筆私本太平記』(一九九〇年一〇月刊)所載の「随筆宮本武蔵」を底本としました。           * 作品中に、身体の障害や人権にかかわる差別的な表現がありますが、作品の時代背景および著者(故人)が差別助長の意図で使用していないこと等を勘み、そのままとしました。読者のご理解を賜わりますよう、お願い申し上げます。